大阪府大阪市にて生誕。幼少期に父の仕事の関係で岡山県玉野市へ転入する。岡山県立岡山朝日高等学校を経て、中央大学法学部へ進学した。
大学卒業後は、父が経営する山根船舶工業株式会社に入社。その後、父の死去に伴い同社の代表取締役社長に就任した。社長在任中は若くして玉野青年会議所(玉野JC)の第16代理事長を務めたほか[1]、日本青年会議所岡山ブロック協議会会長、さらには日本青年会議所(日本JC)のアジア委員長、中国地区担当常任理事、監事など数多くの要職を歴任した。また、玉野商工会議所の副会頭も務めている。
1974年(昭和49年)11月、山根船舶工業の電算室を分離独立させる形で、のちに玉野市初の上場企業となる株式会社日本情報管理システム(現在の株式会社NICS)を創業し、代表取締役社長に就任した。主に三井造船(現・三井E&S)の港湾物流システム(CTMS)の開発などを手がけ、事業を拡大させた。
1993年(平成5年)、玉野市長選挙に出馬し初当選。同年10月29日に第15代玉野市長に就任した。以降、3期12年にわたって同市長を務める[2]。
市政においては、実業家としての視点を活かし、陸路・海路の交通インフラ整備と広域ネットワークの構築に尽力した。「中国国道協会」の会長として、玉野市と岡山市を結ぶ大動脈である国道30号の4車線化に向けた国への要望・陳情活動を推進したほか、「瀬戸内・海の路ネットワーク推進協議会」の会長も務め、瀬戸内海沿岸自治体との広域連携を深めた。
また、観光および市民交流の拠点整備として、1998年(平成10年)に深山公園内に道の駅みやま公園を開設。2000年(平成12年)には市制施行60周年記念事業として、同公園内に深山イギリス庭園を創設した。防災面においては、阪神・淡路大震災の教訓をもとに港湾施設の耐震化を進めるとともに、同じ港湾都市である東京都中央区と「災害時相互援助協定」を締結した[3]。
平成の大合併が推し進められていた2000年代前半には、「県南政令市構想研究会」の会長として周辺自治体との広域合併による政令指定都市への移行を主導したが、議会からの反発等もあり実現には至らなかった[4]。
2005年(平成17年)10月の市長選挙において、新人の黒田晋に敗れ、同年10月28日をもって退任した[5][6]。
1995年(平成7年)の米国行政視察を契機とし、1996年(平成8年)から玉野市内の中高生をアメリカ合衆国マサチューセッツ州のグロスター市へ派遣する「中高生ホームステイ事業」を開始した[7]。「海に面した港湾・観光都市」という共通点を持つ同市との間で、青少年の国際感覚育成を目的とした草の根の交流を長年にわたり積み重ねた。
両市の市民交流が十分に成熟したと判断した3期目最終盤の2004年(平成16年)7月23日、山根は自らグロスター市を訪問し、正式な姉妹都市縁組の協定書に調印した[8]。このホームステイ事業は山根の市長退任後も玉野市の国際交流施策として引き継がれ、現在までに累計150名以上の学生が派遣されている[9]。