山田修 (教育者)
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群馬県多野郡藤岡町(現:藤岡市)出身[1][2][3]。農家の二男として生まれる[4]。 美土里小学校[5]尋常高等小学校卒業後、高津仲次郎の設立した多野実業公民学校に入学し農業や養蚕を学ぶも月謝が払えず2年で中退[1][2][4]、月謝が不要な熊谷陸軍飛行学校に入り、1938年卒業[6][注釈 1]後は教官を打診されていたが、中国戦線を志願し[7]、41年まで北京の南苑飛行班に属した。整備班長はのちに東大野球部監督となる神田順治中尉だった[8][9]。乗機は九七式軽爆撃機や九七式重爆撃機で、上海や南京とを行き来して内地から送られてきた機体の回送を任務としており、南寧作戦では物資輸送に従事したこともある[10]。道中で2度敵機に撃墜されたが生還している。
1942年、千葉県柏市の飛行隊にて1か月内地勤務を続けたのち中国戦線に復帰し、1945年上海にて終戦。南京捕虜収容所に拘留後、1947年5月に復員し帰郷[1][2][3]。
近隣の上野村立上野東小学校の校長をしていた従兄弟の再三にわたる依頼で、公職追放のB項目該当者であることを伏せて[11]1948年に同小学校野栗沢分校の代用教員となる[1][2][12]。その後、正式に教員資格を取得したが、一方で警察官への転職を希望しており、そちらの試験にも合格していた。どちらに進むか悩んでいたところ、身元調査に来た警官からそのまま教員になることを勧められ[13]、以後閉校する1972年まで分校の教師として作文教育に取り組み、全国作文コンクール入選者を多数育てた[14]。また自らも文筆活動を行う[14]。1972年閉校とともに退職[1][3]。その後は鬼石町で農業に従事した[1][2][3]。
編著書
- 『すりばち学校』六興出版部 1959 教育報道社 1983
- 『すりばち学校の子供たち』平山利男撮影 編 「すりばち学校の子供たち」の会 1968 あすなろ書房、1970
- 『きご先生とすりばち学校 谷間の分校の二十一年』編 あすなろ書房 1970
- 『すりばち学校の22年 きご先生・谷間からのレポート』あすなろ書房 1970
- 『すりばち学校の24年 山の分校よさようなら』あすなろ書房 1972
- 『教育に定型はない きご先生と山の子どもたち』文化出版局 よつば新書 1976
- 『山あいの声 きご先生の直言集』教育報道新聞社 教報ブックス 1978
- 『どんじり先生 谷間の分校物語』教育報道社 教報ブックス 1980
- 『さまざまな出会い』教育報道社 教報ブックス 1982
- 『クロちゃんとどんじり先生』前沢栄子画 教育報道社 教報ブックス 1986
- 『きご先生の石垣教育』教育報道社 教報ブックス 1987