山田清人
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広島県生まれ[1][2]。1926年東京市教員講習所を卒業し、深川区の明治小学校ほか全部で3つの小学校の教員を歴任し[3]、「東京綴方の会」に参加[注釈 1]。さらに、1937年5月教育科学研究会の言語教育研究部会に参加した[1][4]。1939年9月からは、教育科学研究会の機関誌『敎育科學研究』の編集実務を担当[注釈 2]。
第二次世界大戦後、1946年には、文部省教育研修所(国立教育政策研究所の前身のひとつ)の所員となり、その後の改組を経て、国立教育研究所の所員として、「全村学校づくり」の運動や、公立教育研究所の組織化に取り組んだ[2][5]。また京浜女子大学教授を務めた。日本教育学会・日本社会教育学会会員。教育科学研究会顧問[6]。
1952年の教育科学研究会再建、日本教職員組合(日教組)による1953年の教育研究集会の開始、1957年の国民教育研究所の設立などに関与した[2]。
山田は、社会改革への関わりが信じられる場合に、青年は意欲的に行動や実践に取り組むと考え、「農村生活のたちおくれをいかに近代化するか」といった課題設定のもとに取り組まれる青年学級活動に期待を寄せていた[7]。