山田隆二 (航空自衛官)
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1954 - 1964(陸自)
1964 - 1974(空自)
| 山田 隆二 | |
|---|---|
| 生誕 |
1920年11月2日 |
| 死没 | 2021年7月31日(100歳没) |
| 所属組織 |
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| 軍歴 |
1937 - 1945(日本陸軍) 1954 - 1964(陸自) 1964 - 1974(空自) |
| 最終階級 |
|
| 除隊後 | 特許庁調査員 |
山田 隆二(やまだ りゅうじ、1920年〈大正9年〉11月2日 - 2021年〈令和3年〉7月31日[2])は日本の陸軍軍人、航空自衛官。最終階級は陸軍少佐、空将。陸士53期卒(高射)。航空自衛隊での高射部隊の創設に携わり、第1高射群初代司令、三沢基地司令、航空自衛隊第2術科学校長、沖縄南西航空混成団初代司令を歴任した。
陸軍士官学校卒業。原隊は甘木の高射第4連隊[3]。同隊を基幹として新設された小倉防空隊第1高射砲連隊中隊長を経て、陸士区隊長として57期・58期生の教育を担当。千葉陸軍高射学校教官で終戦を迎える。
戦後は警察予備隊入隊後、保安隊を経て、陸上自衛隊に所属。MIM-3 ナイキ・エイジャックスの航空自衛隊帰属により転官。
1972年の沖縄返還に伴い、2月に府中の航空総隊にて「沖縄室」を設置し、航空自衛隊臨時那覇派遣隊の編成準備に取り掛かる。各地より準備要員50名を選抜するともに沖縄史の書籍をかき集め、予備知識を深めるよう努力した。5月に陸上自衛隊の臨時第1混成群長桑江良逢、海上自衛隊の臨時沖縄基地派遣隊司令久木田真之助とともに沖縄に到着する予定となっていた。しかし、米軍が5月15日以降は衣食住の貸し出しを一切行わない規定となっていたことから、石川貫之航空幕僚長の指示で国防会議を経ずに生活物資を3月に事前に送っていたことが国会で問題となる。予定通り5月14日に那覇に着任したものの物資は東京に送り返されてしまい、現地調達に苦労したという。以降、部隊編成の変更を強いられながらも翌年7月までにF-104Jによる防空警戒待機やナイキミサイルによる地対空防空任務の引き継ぎを急ピッチで完了させたが、住民登録拒否をはじめ県民の凄まじい反自衛隊感情を目の当たりにし、特に米軍が行っていた急患輸送の引継ぎ問題では県側との折衝に苦心した[4]。
1973年10月、空将に昇任し、南西航空混成団司令に就任[5]。1974年7月、退職[6]。日本飛行機顧問を経て、1987年より特許庁調査員[7]。1996年より多羅尾光孝に代わり偕行高射兵会代表世話人を務める[8]。
年譜
- 1937年(昭和12年)
- 1938年(昭和13年)
- 1940年(昭和15年)
- 2月27日:陸軍士官学校卒業、高射第4連隊附
- 5月:少尉任官
- 1941年(昭和16年)
- 1943年(昭和18年)4月:陸軍士官学校生徒隊第10中隊第6区隊長(57期生担当)[11]
- 1944年(昭和19年)
- 1945年(昭和20年)6月10日:少佐、千葉陸軍高射学校教官兼研究部員[3]
- 1954年(昭和29年)8月:米留学(~55年5月)
- 1961年(昭和36年)時点:陸上幕僚監部第5部特科班長[15]
- 1963年(昭和38年)1月17日:第101高射大隊長
- 1964年(昭和39年)
- 2月:1等空佐
- 4月1日:第1高射群司令
- 7月16日:航空幕僚監部防衛部防衛課勤務
- 1966年(昭和41年)2月16日:航空自衛隊第2術科学校研究部長[18]
- 1967年(昭和42年)12月1日:北部航空方面隊司令部付(ナイキ業務室長)[19]
- 1969年(昭和44年)8月16日:北部航空警戒管制団司令兼三沢基地司令
- 1970年(昭和45年)7月1日:空将補昇任
- 1971年(昭和46年)2月16日:航空自衛隊第2術科学校長
- 1972年(昭和47年)
- 2月1日:航空総隊司令部付
- 5月25日:西部航空方面隊司令部付臨時那覇施設管理隊
- 8月1日:航空自衛隊臨時那覇派遣隊司令
- 10月11日:臨時那覇基地隊司令兼那覇基地司令
- 1973年(昭和48年)10月16日:空将昇任、南西航空混成団司令
- 1974年(昭和49年)
- 5月1日:航空幕僚監部付
- 7月1日:退職