この、肥後国からの貢瑞の話は、巻第三十までの『続紀』本文には現れず、光仁天皇の宣命で初めて記されている。
称徳天皇の崩御は神護景雲4年8月4日であるが、8月17日の稲主の白亀の貢上も、白壁王(光仁天皇)の立太子を祝してのものとは到底思われず、称徳天皇治政の晩年に連続した、天皇及び道鏡への祥瑞の貢進の一環として行われたものであり、神護景雲2年7月11日の刑部広瀬女の赤目の白亀の献進の影響を受けているものと思われる[5]。
光仁天皇は白亀の献進を自身の即位を慶賀するものとして解釈し直し、改元の理由づけとしたことが想定される。宣命文の祥瑞献進が『続紀』本文中に現れないのは、称徳天皇や道鏡を称讃するものであった可能性がある[6]。