この、宝亀元年10月の宣命に見える肥後国からの貢瑞の話は、巻第三十までの『続紀』本文には記されていない。
称徳天皇治政末期には、天皇及び道鏡への祥瑞の貢進が続出している。広主売の白亀貢納は称徳天皇崩御後の8月5日であるが、目的は称徳の治政を賞讃するためのものであり、神護景雲2年(768年)7月11日の刑部広瀬女の赤目の白亀の献進の影響を受けているものと思われる[5]。『延喜式』によると、平安京から大宰府までの下行程が14日、大宰府から肥後国までの下行程が1日半となっているため[6]、都から肥後国府まで半月ほどかかることになる。都が平城京であった奈良時代にも同様であったものと推定される。
光仁天皇は白亀の献進を解釈し直し、自身の即位を慶賀するものとして、改元の理由づけとしたことが想定される[7]。