山部大楯
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記録
→「雌鳥皇女」を参照
仁徳天皇は速総別命を仲人として,女鳥王に求婚したが、姉八田若郎女の処遇に心を痛めていた女鳥王は密かに速総別命と結婚し、さらには和歌を詠んで夫に仁徳天皇にとって代わることを示唆した。そのため、天皇の怒りを買った二人は軍勢に追われて宇陀の蘇邇(曽爾、(そに)、『日本書紀』では伊勢の蔣代野(こもしろのの)で殺されてしまった。
この時、将軍の山部大楯連は、「女鳥王の御手に纒かせる玉釧」を自分の妻に与えた。のちに(新嘗祭の後の)豊明節会で妻は女鳥王のものだった玉釧を身につけて参内した。これを大后の石之日売命が気づいて、大楯の妻を退席させ、後で夫の大楯を呼び出して、こう告げた。
「其(そ)の王(みこ)等(たち)、礼(ゐや)旡(な)きに因りて退(そ)け賜へる、是(こ)は異(け)しき事無くこそ。夫(そ)れの奴や、己が君の御手に纒かせる玉釧を膚も熅(あたた)けきに剥ぎ持ち来て、即ち己が妻(め)に与へたり」 現代語訳:「女鳥王たちは不敬であったからしりぞけられたので、これは特に異常なことではないのだよ。けれども、こやつめ、自分の主君がお手に巻いておられた玉釧を死んでまだ膚にぬくもりがあるうちに剥ぎ取ってきて、おのれの妻にやったとは」(荻原浅男:訳)
そして、山部大楯は死刑になった[3]。