山陽文徳殿
広島県広島市南区比治山にある遺構
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概要
歴史
戦前、軍都として発展していく広島において山陽が尊ばれた[1]。1934年(昭和9年)、頼山陽没後100年記念行事の一環として、多聞院境内に山陽の父・頼春水ら頼家一族の墓地がある関係から、寺の敷地に隣接して建立された[1]。費用は民間からの寄付と足りない分は市が負担した[1]。翌1935年(昭和10年)には袋町の頼家旧居を利用した山陽記念館(現頼山陽史跡資料館)が開館している。
太平洋戦争の戦局が悪化すると、空襲を想定してここに広島市役所の出先機関「戸籍選挙課分室」が置かれ、戸籍原簿の大部分をここに疎開させた[1]。1945年(昭和20年)8月6日被爆、爆心地から約1.82kmに位置した[1]。爆風により窓や瓦が飛び、九輪は熱風により楕円形に変形し爆心地側の西方面に傾いた[1]。なお、出火しなかったため、収容していた戸籍は無事だった。戸籍課の多くの職員が割れたガラスにより負傷、うち一人が即死した。同年8月15日から職員3人による戸籍業務を再開したが死亡届の処理は混乱したと証言がある[2]。
応急修理後、翌1946年(昭和21年)10月から1949年(昭和24年)6月まで市立浅野図書館(現広島市立中央図書館)として使用された[1]。なお浅野図書館新築建て替えに伴い1953年(昭和28年)10月から1955年(昭和30年)2月まで臨時の浅野図書館として利用されている[3]。その後は市の社会教育施設として使用されるも、利用者の減少に伴い1964年(昭和39年)建物自体を閉鎖、現在に至っている[1]。
1993年(平成5年)、市が選定した被爆建物リストに登録された。