岡崎俊夫
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- 出生から修学期
1909年、青森県南津軽郡の黄檗宗法眼寺で生まれた。父親が僧籍にあり、また教育上の都合から幼少期は山口県、福岡県と小学校を転々とした。父親が東京府東京市芝区白金(現在の東京都港区白金)の瑞聖寺住職になったのを機に、芝区の小学校に転校。浦和高校に入学し、在学中に文学活動を始めた。1928年に小説「髑髏」を浦高学友会雑誌に発表。また、同校在学時に武田泰淳や萩原文彦らと知り合っている[1]。
1930年、東京帝国大学文学部支那哲学科に入学。哲学を学びたいと考えていたものの、教授内容は漢学であり、落胆した。在学中の1932年、胡也頻の「同棲」を翻訳し、同人雑誌『集団』に発表。1933年、東京帝国大学を卒業した。
- 大学卒業後(戦前)
卒業後は記者となり、時事新報に入社。横浜の裁判所詰め記者として活動した。しかし、1934年3月に同社代表の武藤山治が不慮の死を遂げたのを機に退社。
その後は、東亜高等予備校に就職[注 1]。同時代の中国文学作品に親しんでいた岡崎であったが、中国語を学ぶために本郷にあった第一外語の夜学に通い、奥平定世らから学んだ。1934年8月、周作人が来日した際に歓迎会を催したのを機に、岡崎俊夫、武田泰淳、竹内好の3人を中心に「中国文学研究会」が発足[注 2][2]。
1936年6月、朝日新聞社に入社し、名古屋支社の整理部校閲課に配属。1940年、高橋俊江と結婚。1942年7月、北京支局に転勤とを命じられた。その北京滞在中の体験を基にして、随筆「北京行状記」を執筆。1944年1月、本国への帰社を命じられたため、妻子を朝鮮京城にあった妹の婚家先に預けて一足先に帰国し、出版部編集局配属として大阪、東京で勤務。同年11月に東京に家族を呼び寄せ、杉並高円寺に居住した。1945年春に世田谷区大原町に移転したが、その直後の5月25日の空襲で焼け出された。
- 太平洋戦争後
戦後、朝日新聞社出版局図書編集部次長となった。社の要職を務めると同時に、精力的に中国近代文学の翻訳を行い、最新の中国における文学の動向を日本に紹介した。また、東京大学や文化学院で講師を務めたり、講演活動も精力的に行った。