岡本彦三郎は尾州津島(津島市)出身のものであると伝わり 、豊臣秀吉の甥である三好秀次(後の豊臣秀次)の家臣として仕えた。小牧・長久手の戦いにおける三河中入作戦の最中、矢田川南岸の白山林(現・愛知県名古屋市守山区・尾張旭市周辺)で行われた白山林の戦いで奮戦。敵兵が右側面から現れたとの報を受け、穂富山城守が秀次に急報し、秀次は田中吉政とともに部将として彦三郎、村善右衛門、白江成定らに下知し激しい戦闘が行われたという。
また『小牧陣始末記』では、この白山林で木下利匡・木下祐久らとともに彦三郎が討死したと伝えられており、もし彼らの奮戦がなければ秀次自身も討死していたと記されている。
一方で、文禄4年(1595年)の秀次事件との関わりでも彦三郎の名が見え(同一人物か不明)、秀次が高野山で切腹させられたのち、同年8月2日、その妻子や近臣らが三条河原で処刑されたが、その中に「左衛門のかう」という女性が含まれていた。記録では彼女は38歳で「河内の岡本彦三郎母(娘か)」とされ、辞世に「中々に花のかずにはあらねども つねなき風にさそはれにけり」と詠んでいる。
また白山林で岡本と共に奮戦した村善右衛門の妹も「左衛門のかう」と同時に処刑されている。