岡村司
明治・大正期の法学者・弁護士
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人物
下総国猿島郡古河町(現:茨城県古河市)に古河藩家臣・岡村忠右衛門の次男として生まれた。二松学舎で漢学を学んだ後、帝国大学でフランス法を専攻する。1892年(明治25年)に大学を卒業し、陸軍経理学校教授などを経て1899年(明治32年)に京都帝国大学法学部助教授となりフランスに留学、3年後に帰国して教授になった。同じころの留学生に坪井玄道、谷本富、大村仁太郎、森岡常蔵らがいる[1]。1900年(明治33年)には中川小十郎が設立した京都法政学校講師に就任。1913年(大正2年)、京都法政学校を母体に中川小十郎と末弘威麿が財団法人立命館(現:学校法人立命館)を設立すると初代協議員に就任した。1904年(明治37年)に法学博士を授与される。孟子とジャン=ジャック・ルソーを尊敬して両者の思想の融合した自由主義を信奉した。専攻は民法であったが、特に当時の家制度を基盤とした家族法に対しては痛烈に批判し、家族法の近代化の必要性を一貫して唱え続けた。1911年(明治44年)6月4日、岐阜県教育会総会で家族制度を批判する講演を行った[2]ことが問題視され、同年7月18日、文部省は彼の言動に対して文官懲戒令を適用して譴責処分(訓告)とした。こうした事情から1914年(大正3年)に大学を退官して大阪で弁護士となり、活躍した。
エピソード
岡村が講師として京都帝国大学法科大学で親族法・相続法を講義していた際の受講生の1人が末川博である。当時の講義は、学生が教授・講師の講義をノートに取るスタイルが基本だったが、岡村の講義は雑談がメインで、学術的な内容はノートにして10枚~15枚程度だった。しかし、岡村は、試験の際には「わしの講義は、まことにどうも貧弱な講義ですまぬ。これは、諸君が勉強をしてくれるということをたてまえにしておるから、こういうことになったのである。だから、試験のときにはどんな本を試験場に持ち込んでもかまわぬ。大八車に積んできてもよろしい。参考書で試験を受けろ。そのときに勉強できるんじゃ」と述べた。末川博は、岡村を「天衣無縫」・「徹底した自由主義者」・「志の大きい先生」と評価した[3]。
