岡部素道

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岡部素道(おかべ そどう、本名:岡部福治、1907年<明治40年>-1984年<昭和59年>6月24日、富山県生まれ)は日本の鍼灸師柳谷素霊竹山晋一郎井上恵理戸部宗七郎と同じく経絡治療創設メンバーのひとり、経絡治療学会(新人弥生会)初代会長、日本伝統鍼灸学会(日本経絡学会)初代会長。息子・岡部素明は経絡治療学会二代目会長。

1907年(明治40年) - 富山県東礪波郡平村生まれ。

1931年(昭和6年) - 結核治療のために東京に上京。柳谷素霊の治療を受け、鍼灸の道を志す。12月両国の東京鍼灸医学校入学

1932年(昭和7年) - 鍼・灸術資格試験合格。求本堂(のちの聖和堂)を開業。東京鍼灸医学校の講師となる

1933年(昭和8年) - 「古典に於ける補瀉論について」を発表

1936年(昭和11年) - 日本大学宗教学科を卒業。宗教学士となる。

1939年(昭和14年) - 3月「新人弥生会」(のちの経絡治療学会)を発足、会長となる。同年4月、東邦医学会講師。

1944年(昭和19年) - 8月国立東方治療研究所員。

1947年(昭和22年) - 5月全日本鍼灸マッサージ師会連盟学術部長。

1948年(昭和23年) - 5月財団法人東方治療研究所理事。

1950年(昭和25年) - 11月(社)日鍼会理事、のちに会長

1952年(昭和27年) - 4月東京都鍼灸師会理事

1955年(昭和30年) - 4月社団法人日本鍼灸師会理事長。

1957年(昭和32年) - 4月東京都鍼灸師会会長(~昭和46年5月)。

1958年(昭和33年) - 4月日本鍼灸師会会長(~昭和46年年4月)。

1965年(昭和40年) - 10月第1回国際鍼灸学会(東京)、国際鍼灸学会会長

1969年(昭和44年) - パリの第2回国際鍼灸学会にて功労賞を受賞

1971年(昭和46年) - 4月日本鍼灸師会顧問。同年5月東京都鍼灸師会名誉会長。同年10月藍綬褒章受賞。

1972年(昭和47年) - 北里研究所付属東洋医学総合研究所鍼灸部長

1973年(昭和48年) - 日本経絡学会を結成、会長となる

1978年(昭和53年) - 4月勲四等旭日小綬章受賞。

1984年(昭和59年) - 6月24日昭和大学病院にて没す〈以上出典:[1][2]

生い立ち

・柳谷素霊に出会うまで

1907年(明治40年)富山県東礪波郡平村に生まれる。幼少期から結核を患い、大学進学と公務員を目指していたが、担当医から20代まで生きられないと宣告されたため、断念。親のすすめで、中学卒業後に不動産業と蕎麦屋の経営を始める。[1]

1931年(昭和6年)結核治療のために東京に上京。その時の治療者が柳谷素霊であった。治療の帰り際に柳谷から自身だけでなく他人の結核を治すことをやってみてはどうかと勧められた。岡部は富山に帰ったのち、不動産を売却し資金を作り東京の柳谷のもとに弟子入り。12月柳谷素霊が教頭を務める両国の東京鍼灸医学校に入学し、翌年1932年には鍼・灸術資格試験に合格。求本堂(のちの聖和堂)を開業(現在も後継されている)。仕事がなく、両国をうろついていたところ柳谷素霊から「解剖学を教えなさい」といわれ、東京鍼灸医学校の講師となる[1]

1933年(昭和8年)柳谷素霊の命により、連日上野の図書館に所蔵されている医古典を書き写しに行く。そのうちに鍼灸の「補瀉」についての疑問が湧き、柳谷素霊に尋ねたところ、自ら調べ雑誌に投稿するよう促された。「古典に於ける補瀉論について」を「東京鍼灸医学誌」(第2巻2号)に発表する。のちの経絡治療創設メンバーである井上恵理もこの論文を見ていた、のちの座談会でこの補瀉論は「大労作」であると評している。[3][4]

このときの机上の補瀉論をどう臨床に活かすかということが課題となる。その頃から肺結核を発症し吐血、学校を辞めて、臨床に没頭することになる。[4]

・八木下勝之助

この前年の1932年から岡部はある学生の父親の話を柳谷素霊から聞き、施術を受けに行っている。それが経絡治療のモデルとなった八木下勝之助であった。八木下の元を訪れ、脈診でもって施術をしているとわかったが、その時に岡部は結核を発症してしまい、なかなか施術にいけなくなる。結核が回復する見込みも見えず、岡部は千葉県の海岸線に転地する。八木下勝之助が岡部宅へ4~5回往診にいき、治療をすると、岡部の結核はかなり改善したという。[5]

八木下の治療で回復した経験から岡部は「補瀉は補瀉だと思い、その体験によって補瀉、虚実を会得した」と話したという。[6]

八木下の施術はまず脈診で、経絡の虚実を見極め、虚実に対して補瀉を行うというシンプルな施術であった。一経主義で、一番虚している経を補うか、一番実している経を瀉したという。[6]

八木下の脈診は愛読書『鍼灸重宝記』をもとにしていたと思われるが、のちに座談会では『鍼灸重宝記』の脈診は『難経』の脈診的であるとしている。[5]

体幹部にはほぼ打たずに、四肢末端の五要穴のみを使い施術し、肺経が虚していれば肺経を補うのみで、時折肩に鍼を打つ程度だったと、その後岡部に紹介され、八木下を訪ねた井上恵理も述べている。[5]

井上恵理曰く、八木下は鍼管を用いたので直刺で施術し、刺鍼時の流注の方向は気にしなかった。[7]

そのほか八木下に関しては、『鍼灸重宝記』を何度も読み返した理由として、繰り返し読むことにより、同じ本でも若い時に読んだ感じと年をとってから読むのとでは受け取り方が違う。技術書である鍼灸書はなおさらという教えを述べている。[6]

また八木下勝之助を招いた講演の席上「経絡の虚実を補瀉するだけである」と一言残し、席を降りたという話がある。[6]

その後、八木下の施術で回復した岡部は再び東京に転居し、麹町で開業する。[5]

・新人弥生会

1934年(昭和9年)から3年間、岡部と井上恵理の二人で『素問』『霊枢』を毎週2回ずつ読みあい、原典研究を行っていた。[8]

1936年(昭和11年)日本大学宗教学科を卒業。宗教学士となる。『難経』流の手首の脈に五臓六腑をあてはめるやり方を用いて、治療穴には要穴を使うと柳谷素霊に報告しに行ったのはこのころとされる。[1][8]

1938年(昭和13年)竹山晋一郎が鍼灸界に入り、雑誌『東邦医学』の編集長になり、岡部たちとの交流が始める。[8]

1939年(昭和14年)3月竹山晋一郎の呼びかけで「新人弥生会」(のちの経絡治療学会)を発足、会長となる。同年7月、東邦医学会講師。同月京都にて、第四回東邦医学夏期講習会を行い、岡部は「臨床時における脈診と経絡の関係について」を講義する。この講習会でマスゲームのように同じ治療を皆が一斉に行うという「経絡治療」のお披露目、プレゼンテーションが竹山によってなされる。[8]

1944年(昭和19年)8月国立東方治療研究所員。

・終戦後

1945年(昭和20年)終戦。

1947年(昭和22年)5月全日本鍼灸マッサージ師会連盟学術部長。

1948年(昭和23年)5月財団法人東方治療研究所理事。

1950年(昭和25年)11月(社)日本鍼灸師会理事、のちに会長

1952年(昭和27年)4月東京都鍼灸師会理事

1955年(昭和30年)4月(社)日本鍼灸師会理事長。

1957年(昭和32年)4月東京都鍼灸師会会長(~昭和46年5月)。

1958年(昭和33年)4月(社)日本鍼灸師会会長(~昭和46年年4月)。

1959年(昭和34年)医道の日本主催で経絡治療夏期大学が綱島の旅館で開かれる。

1965年(昭和40年)10月18~20日第1回国際鍼灸学会が東京の上野会館で行われ、鈴木善幸厚生大臣や武見太郎日本医師会会長、ジャンジレーフランス鍼療協会会長など多くの来賓出席し、盛大に催された。国際鍼灸学会会長。[9]

1969年(昭和44年)パリの第2回国際鍼灸学会にて功労賞を受賞

1971年(昭和46年)4月(社)日本鍼灸師会顧問。同年5月東京都鍼灸師会名誉会長。同年10月藍綬褒章受賞。

1972年(昭和47年)北里研究所付属東洋医学総合研究所鍼灸部長

1973年(昭和48年)日本経絡学会(現・伝統鍼灸学会)を結成、会長となる

1978年(昭和53年)4月勲四等旭日小綬章受賞。

1984年(昭和59年)6月24日昭和大学病院にて没す〈以上出典:[1][2]

人物

人の性格を掴むことに長けており、人となりをみて適材適所に人を配置することから「人事の岡部、人使いの岡部」と評された。[10]

患者には歴代総理大臣をはじめ、著名人も多い。作家・吉川英治の随筆『折々の記』の中に、岡部は登場する。叙述によると岡部は横山大観の紹介で吉川英治の施術を行っていた。吉川を施術したあとに、六代目 尾上 菊五郎にも施術へ伺ったと書いてある。[11]

経絡治療について

著書一覧

脚注

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