岩下製陶
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江戸時代末期の慶応元年12月(1866年1月)[1]、2代目・岩下作右衛門(岩下製陶初代当主)が農間余業[12]として瀬戸焼業:窯業を大田原藩に願い出て[6]、慶応2年6月(1866年7月)[2][13]大平村で創業した[6]。翌慶応3年4月(1867年5月)には初めて窯を焼き上げたと言われている[6][13]。
慶応3年(1867年)に2代目作右衛門が没した後、3代目・岩下作右衛門:後の岩下太平[3][7][14][15][16](岩下製陶2代目当主)に窯業が受け継がれた[6]。
1876年(明治9年)7月、館林村に弟である岩下吉造(別表記に吉蔵[17])の名義で支店、1877年(明治10年)頃には千葉県野田の瀬戸川岸に出張店、1885年(明治18年)には益子村に「岩下吉造商店」を設置した[6]。
1881年(明治14年)から1882年(明治15年)の頃、太平は吉造に岩下家の家督を譲り、太平は益子村に移転して仲買業を営んだ[6]。1887年(明治20年)には太平・吉造が両者ともに益子村で営業しており、1889年(明治22年)の仲買業組合の名簿には、太平と吉造の両名の名が記してあった[6][18]。
1898年(明治31年)には茨城県結城にあった川島停車場に出張所を設置した[6]。
この後も益子村の窯場を多く傘下に持ち、事業を拡大していった[6]。
1906年(明治39年)10月25日には太平と吉造は江川甲子五郎と共に「丸三合資会社」を設立。陶器や薪や灰などの売買を行った[6][19][20]。
1907年(明治40年)に弟・吉造が亡くなると[21]、岩下窯の事業の大部分は兄・太平が主導権を握ることになった。太平は大正前期には益子陶器同業組合の組長も務めた[6][22]。
弟の岩下吉造家は農業を受け継いでいくが、兄の岩下太平家はその後も窯業を続け[6]、岩下貞九郎(岩下製陶3代目)、岩下文二(岩下製陶4代目)と続いていき、現在は個人陶芸家を営んでいる岩下製陶5代目・岩下哲夫[1][2][6][23][24]、そして岩下製陶6代目となる岩下宗晶へと続いている[2][25]。
現在は益子焼販売店である「古窯いわした」の他、「益子陶芸教室」も営んでいる[26]。また益子陶器市開催時には「古窯いわした:岩下製陶」でテント市の一つである「古窯いわした広場」が開かれている[27]。

また6代目・宗昌が中心となり、2014年(平成26年)から、制作過程で欠けてしまった陶器など、日の目を見ずに捨てられてしまった作品を供養する「陶器供養」となる「ともしびのよる」を企画実行するなど、後述の「益子最古の登り窯」を用いた「新しい益子の文化」を開催している[28][29][30]。
