岩下貞融
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生涯
商人である岩下貞諒の子として信濃の善光寺大門町に生まれる。11歳でに善光寺大勧進の寺侍となり、文政3年(1820年)に名古屋で冢田大峯に学ぶ。次いで京都で頼山陽に学び、翌年善光寺に帰る。文政5年(1822年)には江戸に行き、清水浜臣に学んだ。[3]
和漢の学に通じ、和歌・詩文・国学関係の多くの著書をなした[4]。また、善光寺の歴史や古典籍の注釈などにも豊富な知識を有し[5]、詩歌書画も能くした。雅楽を奏する楽人でもあった[4]。近世善光寺を代表する学者で、伴信友や黒川春村、『江戸繁昌記』で有名な寺門静軒等多くの学者とも交流を持った。
小林一茶を世に出した人々の一人であり、羽田墨芳の『一茶発句集』(嘉永版)に序文を寄せて、一茶を称えている。また漢詩文集『桜園雨後』では、一茶の「松陰に寝てくふ六十余州哉」を、神社の幟用に「松陰于寝食六十有余州」と作り変えている。[2]
きわめて多数の著作があったが、弘化4年(1847年)の善光寺大地震で多くの著作が失われてしまい、現存するものは少ない。この時、岩下は父祖伝来の太刀、琵琶をはじめ、岩下文庫の書籍およそ5000巻を焼失したという。[3]
慶応3年(1867年)死去。享年67歳。法名「菅山院釈敬道桜園居士」。墓は長野市の康楽寺にある。[3]
また、善光寺西の横沢町の旧居跡に、「桜園岩下貞融顕彰碑」が建てられている。[1]
