岩垂亨
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初期
1888年(明治21年)、宇田作太郎の次男として三重県宇治山田町[1](現在の伊勢市二俣町[2])で誕生[3][4]。愛知県立第一中学校に入学するも中退し[注釈 1]、神戸病院[6][7]などで働いたのち、東京に住む叔父の勧めで東京に移転し再び勉学に取り組むことになった[8]。
1906年(明治39年)、東京高等師範学校に入学。1910年(明治43年)3月には本科数物化学部を卒業し[9]物理および化学の教員免状を得た[10]。私立名古屋中学校に就職するが、ほどなく退職し[11]同年10月には東京帝国大学理科大学化学科に入学[12]。1913年(大正2年)に卒業して同大学大学院に進学し[13]、松原行一の指導のもと有機化学の研究に取り組んだ[3]。同年11月、兄の宇田習吉[14]が勤務していた日本電気の創業者岩垂邦彦の次女裕子と結婚して岩垂姓となった[4][11][注釈 2]。
サルバルサンと万有創立
梅毒の特効薬であったサルバルサンは当時ドイツからの輸入に依存しており、国内での合成・製造が望まれていた。翌1914年(大正3年)には第一次世界大戦の勃発に伴って日本はドイツに宣戦布告し、輸入が滞ることとなった。このため東京帝国大学医科大学長であった青山胤通は、松原に対してサルバルサン合成の研究を依頼した[17]。松原は同年11月にこの研究を岩垂に命じ[18]、1915年(大正4年)3月[18]に岩垂はサルバルサンの合成に成功した。
岩垂はいったんサルバルサン合成の研究を終えて他のテーマに取り組んでいたが、サルバルサンの不足が顕著になる一方、他の研究機関でも合成に成功し商業化が行われる旨の報道を目にし、自ら生産・販売することを決意した[19]。同年5月には東大総長山川健次郎の承認を得て、8月に萬有合資会社の発起人会が開かれた。発起人には実父の宇田作太郎、実兄の宇田習吉、義父の岩垂邦彦、その旧友であり亨と同郷でもある大井才太郎などが名を連ねた[20]。「萬有」は岩垂が科学分野で慣れ親しんだ言葉として選んだものであったという[21]。また国産サルバルサンの商品名は、宇田習吉が挙げた候補の中から岩垂が選んだ「エーラミゾール」となり[22]、同年12月には元金を回収できるほどに売れた[18]。これは同年に発売された他社の国産サルバルサン[注釈 3]と並び、日本初の合成医薬品とされる[25]。
万有の発展とペニシリン製造
1917年(大正6年)には合資会社を発展解消し[18]、萬有舎密株式会社を設立して代表取締役となった。舎密は化学と同義で、これも岩垂の発案による[21]。1924年(大正13年)には1年をかけて欧米各国を視察し、情報収集とともに外国企業との提携に向けた素地を作った[26]。帰国後の1925年(大正14年)6月に社名を万有製薬とした[27]。第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)には日本陸軍のペニシリン委員会から要請を受け、ペニシリン製造に着手した[28]。終戦後の1946年(昭和21年)に設立された日本ペニシリン協会では、初代理事長を務めた[29]。
1950年と1953年にもアメリカを訪れ、メルクとの合弁による日本メルク万有を設立して自ら社長となった[30]。医薬分野の功績により、1956年11月には藍綬褒章を受章[31]を受賞した。1958年にはブリストル・ラボラトリーズ(後のブリストル・マイヤーズ スクイブ)との共同研究のために万有リサーチ・ラボラトリーズを設置、1961年にはこれを事業化して日本ブリストル万有研究所を設立、社長に就任した[32]。
晩年
1963年、万有製薬の社長職を息子・孝一に譲り、自らは会長となった[33]。翌1964年には相談役となり経営の第一線を退いた[34]。この頃、キリスト教を信仰することとなりカソリックに入信した[35]。1965年4月には勲三等瑞宝章を受勲した[36]。
1974年6月16日死去。同月18日[34]に、東京カテドラル教会で万有製薬による社葬が営まれた[33]。その遺志により、岩垂が所有していた万有製薬の50万株は、養父・邦彦が創設した岩垂奨学会に寄付された[37]。死没日付をもって正五位に叙された[38]。