大井才太郎
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経歴
安政3年11月17日(グレゴリオ暦1856年12月14日)、大井良平の長男として[1]伊勢国[2]山田辻久留町[3](現在の三重県伊勢市辻久留)で生まれた。当地の宮崎語学校に入学し、英語を学んだ。同門には尾崎行雄、的場中などがいて[4]、尾崎とは双璧と呼ばれたという[5]。1875年(明治8年)、宮崎語学校が閉校となったため[6]、工学寮が工部大学校の予備教育のために設置していた学校へ的場とともに中途入学した[3][7]。
翌1876年(明治9年)には工部大学校に進学し[8]、1882年(明治15年)5月に電気工学科を卒業[9]。技手として当時の工部省に入省した。1885年(明治18年)には逓信省設置に伴い、逓信技師となった[1]。工部省工務局長・逓信省電信局長であった志田林三郎のもとで、外国製電話機の模造に携わった[10]。また逓信省の職員養成機関であった東京電信学校において教授も務めた[11]。
電話交換事業
当時の日本では、電話を官営とするか民営とするかで議論が行われていた[12]。最終的に逓信省は電話を官営とする方針のもとに、1888年(明治21年)大井を海外視察に派遣することとなった。大井は同年8月18日に出発[13][注釈 1]、翌1889年(明治22年)にかけてドイツ、イギリス、アメリカ[14][15]を視察した[12]。このとき、パリ万国博覧会にも出品説明員として派遣されている[16]。
帰国後復職し[17]、『電話交換方法大要』を執筆、さらに電話敷設規則の起草に携わった[2]。1890年(明治23年)には東京~横浜間で開設された初めての電話交換事業において、東京・横浜の両電話交換局で主管を兼務[18]するなど、事務全般に関わった[19]。電話はほとんどの人にとって未知の技術であり、大井はもちろん当時逓信省工務局長であった若宮正音などが率先して勧誘を行った[20]。予定加入者数は東京で300件、横浜で100件と見積もっていたところ、東京237・横浜48に留まった[21]。この頃ちょうどコレラが流行しており、人々の間には「電話がこれだけ明瞭に言葉を伝えるのだから、コレラも電話を介して伝染するのでは」という流言飛語も見られたという[21]。
1891年(明治24年)には警視庁兼務となり[22]、東京電話交換局長となった[23]。1892年(明治25年)には大阪~神戸間においても電話交換事業が開始されることになり、大井が両交換局の主管となり[24]、さらに大阪電話交換局長に任ぜられた[25]。大阪でも当初の加入者数は377件と苦戦した[21]。また1894年(明治27年)に日清戦争が始まり、緊縮財政のため各地への電話交換事業拡大は進まなかったが、通話数は1893年の700万から1894年には1300万とほぼ倍増した[26]。戦争終結とともに事業公債を用いた拡張計画が立案され、全国主要都市に電話交換局が設置された。この頃、大井は各地で談話を行い電話の効用に関する講演を行っている[27]。
1899年(明治32年)、「博士会において学位を授くべき学力ありと認めたる者」として、工学博士を授与された[28]。
当時の逓信省で技術職最高位である工務課長まで昇進し[29]、1913年(大正2年)に逓信省を退官した[30]。1918年(大正7年)には錦鶏間祗候を命ぜられた[31]。
企業経営
退官後は民間企業の経営にも携わった。1915年(大正4年)、大井の旧友である岩垂邦彦[注釈 2]は、婿養子の岩垂亨[注釈 3]が国内生産に成功したサルバルサンを事業化すべく、萬有合資会社(のちの万有製薬)を設立することになった。大井は創設者に名を連ね、監査役の任についた[33]。
1919年(大正8年)[29]、岩垂が創業した日本電気に取締役として入社した。当時の日本電気は製品の8割強を逓信省に納入していた[29]が、実態としては米国ウェスタン・エレクトリック社製品のノックダウン生産であった[34]。大井の入社は電話機の国産化にあったとされ、逓信省とのコネクションを生かして開発体制を指揮した[35]。その途上に関東大震災が発生し、日本電気は技師長の高見基夫を始め100名以上の生産従事者を失った[36]。大井は体制立て直しのため、同郷で大学・逓信省の後輩にあたる丹羽保次郎[注釈 4]を登用し、国産ファクシミリの開発に当たらせた[38]。
これと前後し、1920年(大正9年)には東京電気(東芝の前身のひとつ)の取締役に就任した[39]。
1924年(大正13年)12月31日死去[40][注釈 5]、享年69。従三位が特旨贈位された[41]。翌年1月4日に東京・中野の高徳寺に埋葬された[1]。