岩富藩
日本の江戸時代初期に、下総国に所在した藩
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歴史
岩富は元は「弥富」と呼ばれ、千葉氏の家老原氏の勢力圏であった。原氏は本拠地を生実城(小弓城)に置き、里見氏の圧迫により臼井城に移ったが、その後も生実城は対里見氏戦の前線基地であった。生実と臼井のほぼ中間に位置した岩富(弥富)は中継基地として重要な存在であり、原氏の一族である弥富原氏が居城としていた。
藩主となった北条氏勝は、戦国大名小田原北条氏の一族である。氏勝の祖父は「地黄八幡」として知られる勇将・北条綱成で、代々相模国玉縄城主[注釈 2]を務め、一門として重きをなした。氏勝は、天正18年(1590年)の小田原征伐の際に山中城の守将の一人として派遣されたが、3月29日の山中城落城後に居城の玉縄城に撤収して蟄居した[1]。この行動は、小田原城に籠城する北条氏政らの疑心を招いたとされ、憤激した氏勝は玉縄城で籠城して抗戦の構えを見せた[1]。徳川家康は、本多忠勝・榊原康政・井伊直政らを派遣して氏勝に降伏するよう説得を試み、氏勝は4月28日、徳川家康に降伏した[1]。氏勝は家康の麾下に属し、浅野長政・木村重茲(重高)・本多忠勝勢を先導し、依然として抗戦を続ける関東諸城の平定に協力した[1][2]。
『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば、天正18年(1590年)の家康の関東入国に際し、氏勝は下総国岩富に1万石を与えられるとともに、譜代の列に加えられた[1]。ここに岩富藩が立藩したと見なされる。天正19年(1591年)の検地帳が残されており、房総において太閤検地を最も早く行った史料となっている[2]。その後、氏勝は実子の北条氏明に家督を譲ったと見られるが[2][注釈 3]、慶長元年(1596年)頃に氏明は没し、氏勝が当主に復帰したようである[2]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際して、氏勝は三河国岡崎城を田中吉政から受け取って在番し、次いで尾張国犬山城を守備する功を挙げた[3]。関ヶ原の戦いのあと2年間は丹波亀山城で城番を務め、その後も松平忠頼とともに岡崎・犬山・丹波亀山の城番を務めたという[4]。ただし、関ヶ原の戦い頃から氏勝は体調を崩したともされ、養嗣子(実弟)の北条繁広が代理を務めたともいう[2][注釈 4]。慶長16年(1611年)3月に氏勝は岩富において死去した[4]。
氏勝の跡を継いだのは、慶長16年(1611年)に氏勝の養嗣子となった北条氏重であった[4][注釈 5]。氏重は保科正直の四男で、母は多劫姫(徳川家康の異父妹)であり[4][注釈 6]、すなわち氏重は家康の甥にあたる。氏重は慶長18年(1613年)冬、下野富田藩に移封となったため[4]、岩富藩は廃藩となった[6]。
歴代藩主
領地
城と城下町

現代の岩富城付近には「岩富」と「岩富町」という大字があるが、これは近世の岩富村・岩富町に由来する[7][8][9]。中世以来の岩富城の城下町が「岩富村」[10]から区別されて「岩富町」となったとされ[11][12]、岩富町は江戸時代に在郷町として栄えた[11]。岩富藩廃藩後、岩富村・岩富町はおおむね佐倉藩領とされ、幕末・明治維新期を迎えている[13][10][11]。
岩富町字本宿の八幡神社は、慶長14年(1609年)に北条氏勝が鎌倉・鶴岡八幡宮の神鏡を模鋳した鏡を祀ったのが始まりと伝えられる[14]。
なお、岩富村・岩富町を含む諸村は、明治期の町村制施行に際して「弥富村」を編成した[7]。村名として「弥富」が採用されたのは、この地域一帯が弥富郷に属していたと伝えられていたことによる[7]。弥富村の村役場は大字岩富町に置かれた[7][9]。1954年(昭和29年)の昭和の大合併に伴い、弥富村は佐倉市に編入された[7]。