浅野長政

日本の戦国~江戸時代の武将、大名、第14代浅野家当主、初代真壁藩藩主 From Wikipedia, the free encyclopedia

浅野 長政(あさの ながまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名豊臣政権五奉行の一人。浅野家14代当主。常陸国真壁藩初代藩主。

時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文16年(1547年[1]
改名 長吉(初名)→長政
概要 凡例浅野 長政, 時代 ...
 
浅野 長政
浅野長政像(東京大学史料編纂所蔵)
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文16年(1547年[1]
死没 慶長16年4月6日1611年5月29日[1]
改名 長吉(初名)→長政
別名 弥兵衛(通称
戒名 伝正院殿前霜台功山道忠大居士
墓所 茨城県桜川市真壁町桜井伝正寺
和歌山県伊都郡高野町高野山悉地院
官位 従五位下弾正少弼従四位下侍従従三位
幕府 江戸幕府
主君 織田信長豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
常陸真壁藩
氏族 安井氏浅野氏
父母 父:安井重継、母:浅野長詮の娘
養父:浅野長勝養母七曲殿
兄弟 安井氏次(諸説あり)、長政、安井兼継(諸説あり)
長生院
幸長栄茂長晟、栄雲院、養梅院、智相院、長重
養女多羅尾光定[2]船越永景
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長政は1598年ごろ以降の名で、初名の長吉(ながよし)を名乗っていた時期が長い[注 1]

生涯

家督相続から織田家臣へ

浅野長政誕生地碑(北名古屋市の霊松寺)

尾張国春日井郡北野[注 2]宮後城主・安井重継の子として生まれる[3]織田信長の弓衆をしていた叔父・浅野長勝に男子がなかったため、長勝の娘・やや(彌々)の婿養子として浅野家に迎えられ、のちに家督を相続した。同じく長勝の養女となっていたねね(寧々、のちの北政所、高台院[注 3]が木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に嫁いだことから、長吉は秀吉に最も近い姻戚(舅を同じくする義理の相婿)として、信長の命で秀吉の与力となる。

天正元年(1573年)、浅井長政攻めで活躍し、秀吉が小谷城[注 4]となると近江国伊香郡持寺郷に120石を与えられた[4]。天正8年(1580年)、別所氏が織田家に反乱を起こしていた際、秀吉の与力であった別所重宗播磨三木城別所長治に、織田家に降伏するには切腹するのがよいでしょうという内容の書状を送ったところ、長治は自身と別所吉親別所友之の自害を条件に、籠城している城兵を助命してほしいという返書を長政・重棟に送った。その後、秀吉はこの書状に感嘆し、3名の切腹を条件に城兵を助命することを承諾した(三木合戦[5]。その後、長政は播磨揖東郡網干など5600石を加増された[4]。さらに、天正10年(1582年)、本能寺の変後の中国大返し山崎の戦いでの功績により、山城国山科・真木島など3060石を加増された[4]

豊臣家臣として

信長の死後は秀吉に仕え、天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いで戦功を挙げた。その後、戦功により、近江下甲賀9070石、大津1万256石を与えられ、合計2万300石を領する大名へ出世した[6]。8月に長政は瀬田城に入城した[4]。同年11月、坂本城を与えられていた杉原家次福知山城へ移封となったため、長政は瀬田城から坂本城へ移った。同年12月、近隣の堅田の豪族が所持していた諸種の特権を追認する書状を発給している。さらに、同月、坂本城下に11箇条の定書を発した[4]。また、坂本城の改築も行った。現在、坂本城から聖衆来迎寺に移築され、現存している城門は浅野氏時代に作られたものだと考えられている[4]

天正12年(1584年)、京都奉行職となり、のちに豊臣政権下の五奉行となる。長吉は、その卓越した行政手腕を買われて秀吉に命ぜられて太閤検地を実施する。また、東国の大名との関係も深く、豊臣政権が諸大名から没収した金銀山の管理を任されていた。

天正13年(1585年)、紀州征伐富山の役に参戦した。また、これらの功績により、近江高島郡7200石を加増された[4]

天正14年(1586年)、秀吉の妹・朝日姫徳川家康の正室として迎えられた際は、浜松まで赴いた。秀吉は長政に坂本城を廃城し、大津に新たな城を築くよう命じた(大津城[4]

天正15年(1587年)2月26日、琵琶湖水運の大津百艘船に対して荷物輸送に関する規則についての高札を出していることから、この時までに大津へ本拠を移したと考えられている[4]。同年7月からの九州平定などでも従軍して活躍し、同年9月5日、九州平定での家臣の不始末により加賀小松城へ減封された丹羽長重に代わり、若狭国後瀬山8万2000石の国持ち大名となった[4]

天正16年(1588年)、小浜従五位下・弾正少弼に叙任される。また同年、若狭の自身の領地で検地をおこなった[4]

天正17年(1589年)、若狭の自身の領地で刀狩りを行った[4]

天正18年(1590年)、関東平定では忍城の戦いに参加し、攻城戦終盤や戦後処理では石田三成に代わって、長政が主導的な役割を果たしていくことになる[7]奥州仕置では実行役として中心的役割を担った。取次役として南部信直との関係を強め、葛西大崎一揆九戸政実の乱へ対処した。

天正20年(1592年)、豊臣姓を下賜された[4]

文禄2年(1593年)11月、秀吉は長政に甲斐5万5000石を、子の幸長に甲斐16万石を与え、伊達氏、南部氏、宇都宮氏、那須氏、那須衆、成田氏を与力として付け、これらの領主の取次を命じた[4][8]。文禄2年(1593年)11月は文禄の役後であり、臨時的に編成によるものではなく、徳川家康への押さえとして与力を編成したものと考えられている[8]。また、長政は豊臣政権を支える奉行として、甲斐には入らず、幸長が甲斐に在国し、統治を行った[4]

『十六・七世紀イエズス会日本報告集』によると、豊臣秀次が失脚した秀次事件(文禄4年、1595年)の翌年の慶長元年(1596年)、浅野長政は「貴人たちの中の一人」(具体的な人名は記載されていない)から秀次の共謀者として秀吉に報告され、子の幸長とともに秀吉から切腹を命じられたという[9]。しかし、徳川家康と前田利家の執り成しで、両名が長政に尋問を行い、結果として長政の旧侍臣が反逆に関する書状を偽造していたことがわかった[9]。この旧侍臣は磔刑に処され、長政自身が処罰されることはなかったが、秀吉からの信頼を失ったという[9]

取次の関係にあった領主のうち伊達政宗との関係では、長政とは朝鮮出兵の際に行動をともにし、晋州城攻撃では政宗の軍勢は長政の指揮下に入っていた[8]。しかし、政宗は所領の進上を申し出る文書を書かせたなどとして、長政に対して「絶縁状」とする不満を述べた長文の書状を送っている[8]。この背景には長政が秀次事件に関連して失脚した政権内部の状況変化が影響しているとする説もある[8]

ただ、慶長伏見大地震(1596年)の際には地震直後に伏見城の秀吉のもとに駆け付けた[9]

慶長2年(1597年)の宇都宮氏改易事件(宇都宮崩れ)に関与したともいわれる[8]。これには諸説あるが、宇都宮興廃記によれば、国綱には継嗣が無かったため、五奉行の一人である長政の四男・浅野長重[注 5]を養子として迎えようとしたが、国綱の弟である芳賀高武がこれに反対し、縁組を進めていた国綱側近の今泉高光を殺害してしまった。長政がそれを恨みに思ったため、その讒言により改易されたとしている。このほか宇都宮氏の後継者として長政の子息を養子とすることに国綱が反対したとする説や、浅野長政が主導した検地の際に宇都宮氏が過少申告していたことが露見したためとする説など諸説あるが明確な一次史料はないとされる[8]

宇都宮氏改易事件(宇都宮崩れ)の影響は、国綱と縁戚(いとこ)関係に当たる佐竹義宣にも波及した[8]慶長2年(1597年)10月7日の佐竹義宣から父・義重に宛てた書状があり、そこには、宇都宮氏を与力大名とし姻戚関係もある佐竹氏にも改易命令が出されたが、石田三成の取りなしによって免れたことや、「上洛して一刻も早く秀吉に挨拶すべきだが、浅野弾正の検使が宇都宮領の調査に向かっているので、それに覚られないように密かに上洛するように」という三成から指示を受けたことが書かれている[11]。宇都宮氏は長政の与力であったのに対し、佐竹氏は長政とはこのような関係はなく三成と取次関係にあったため、佐竹氏に対する改易命令は撤回されたものと考えられている[8]

『十六・七世紀イエズス会日本報告集』によると、秀吉は死の間際にそれまでの四奉行に加えて、五奉行の筆頭として長政を加えたという[12]

慶長4年(1599年)の政治状況について、『十六・七世紀イエズス会日本報告集』は石田三成と浅野長政は「憎悪を爆発」させ対立が激化したとしており、長政と小西行長も「大いに不仲」だったとしている[12]。同年、家康暗殺計画の嫌疑をかけられ、甲府への謹慎を命じられたが、家督を幸長に譲って武蔵国府中に隠居した[13]府中市白糸台5丁目には隠棲の地と伝わる場所が残っている[13]

関ヶ原の戦い

浅野長政屋敷跡(愛知県一宮市、現在は浅野公園になっている)

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍につき、江戸城の留守居を務めた。この功により、慶長11年(1606年)に常陸国真壁5万石を与えられ、真壁藩を立藩した。長男の幸長は関ヶ原の戦いで功をあげ、紀伊国和歌山37万石へ加増転封されている。長政自身は江戸幕府の成立後は家康に近侍し、慶長10年(1605年)には江戸に移った。

慶長16年(1611年)4月7日(4月6日とも)、長政は真壁陣屋[注 6]で死去した。享年65、没後は高野山悉地院に遺体を納めた。真壁5万石は四男・長重が継いだ。

逸話

  • 小田原征伐において、秀吉が沼津城に進軍の際、案内役の家康家臣の伊奈忠次舟橋を架けた。しかし秀吉は、側近の三成の言に従い、用心して渡ろうとしなかった。そこで長政が手勢を率いて先に渡り、舟橋の安全性を証明したという(大道寺友山の『異本落穂集』より)。
  • 同じく小田原征伐の際、秀吉は、家康の居城の駿府城に宿泊する予定であった。しかし同じく三成が「駿河大納言殿(家康)は北条左京(北条氏直)の岳父であり、内応している疑いがございます」と述べた。すると長吉は「大納言殿はそのようなことをされる御方ではない。そんな偽りを信じてはいけませぬ」と秀吉に直言した。秀吉は長吉の言葉を容れて駿府城に入城し、家康から手厚いもてなしを受けたという(『異本落穂集』より)。
  • 秀吉が文禄の役で自ら朝鮮に渡ると言い出した際、三成は「直ちに殿下(秀吉)のための舟を造ります」と述べたが、長吉は「殿下は昔と随分変わられましたな。きっと古が殿下にとりついたのでしょう」とも述べた。秀吉は激怒して刀を抜いたが、長吉は平然と「私の首など何十回刎ねても、天下にどれほどのことがありましょう。そもそも朝鮮出兵により、朝鮮8道・日本60余州が困窮の極みとなり、親、兄弟、夫、子を失い、嘆き哀しむ声に満ちております。ここで殿下が(大軍を率いて)渡海すれば、領国は荒野となり、盗賊が蔓延り、世は乱れましょう。故に、御自らの御渡海はお辞めください」と諫言したという(『常山紀談』)。
  • 石田三成について研究している白川亨は、関ヶ原の戦いの前の長政謹慎事件は、長政や前田利長を三成らの反家康派から分離させようとした家康の陰謀、挑発であるという説を提唱している。長政の嫡子・幸長は三成と犬猿の仲だったため、長政は両者の間で苦悩していたという。
  • 甲州八珍果を定め、甲斐国で果物栽培を奨励したという説があるが、正確なところは明らかになっていない[14]

叙勲

系譜


安井重継
長政
幸長長治
(初代三次藩主)
浅野長詮長忠忠吉長晟
(安芸浅野氏初代)
光晟
(2代広島藩主)
長季
長重長直
(赤穂浅野氏初代)
長友長矩
(内匠頭)
長勝やや
(実娘または養女、長松院)

(七曲)
木下家定勝俊
利房
小早川秀秋
杉原家利
(朝日)
ねね
(長勝養女、高台院)
定利
木下藤吉郎
(豊臣秀吉)
家次


長男の幸長は、和歌山藩の初代藩主となり、慶長18年(1613年)、幸長の死後嗣子が無かったため、長政の三男で備中国足守藩主であった弟・長晟が家督を相続し、元和5年(1619年)に安芸国広島藩に加増転封となり、幕末まで存続した(安芸浅野家)。明治には侯爵となる。

四男の長重は、長政の隠居料を相続して真壁藩主[注 7]となり、子の長直の代に播磨国赤穂藩に転封となる(赤穂浅野家)。長重の曾孫赤穂事件で有名な浅野長矩であり、事件後に赤穂藩は除封となる。弟の浅野大学(長広)家は500石に減封されて続いたが、昭和に後継者が無く断絶した。また、長政の従兄弟に忠吉がおり、三原浅野家(家老・三原陣屋)の祖となる。

登場作品

小説

映画

テレビドラマ

漫画

ゲーム

脚注

参考文献

外部リンク

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