岳飛
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生涯

岳飛は元々は豪農の出であったが、幼い頃に父を亡くし、生母の姚氏に育てられたという。
やがて21歳の時、北宋末期の宣和4年(1122年)に開封を防衛していた宗沢が集めた義勇軍に参加した。岳飛は武勇に優れ、その中で金との戦いなどに軍功を挙げて頭角を現し、紹興4年(1134年)には清遠軍節度使・荊湖北路襄陽府潭州制置使に任命された。
しかし、増大する名声が秦檜派の反感と嫉視を招くことになる。
紹興10年(1140年)に北伐の軍を起こすと、朱仙鎮(現在の河南省開封市祥符区)で会戦を行い、金の総帥斡啜の率いた軍を破って開封の間近にまで迫るが、秦檜の献策により友軍への撤退命令が出され、孤立した岳飛軍も撤退を余儀なくされた。これは『宋史』の記録であるが、『金史』にこの会戦の記録はない。
その後、秦檜により金との和議が進められる。それに対して、主戦派の筆頭であり民衆の絶大な人気を持った岳飛は危険な存在であり、紹興11年12月(1142年1月)に秦檜は岳飛・岳飛の子の岳雲・岳家軍の最高幹部である張憲に対し、冤罪を被せて謀殺した(表向きは謀反罪であった。軍人の韓世忠が「岳飛の謀反の証拠があるのか」と問うたが、秦檜は「莫須有(あったかもしれない)」と答えている)[3]。この時、岳飛は39歳、岳雲は23歳だった。その背には母親によって彫られたとされる黥(入れ墨)「尽忠報国」の4文字があったという。
没後


紹興32年(1162年)、孝宗が即位したことを機に岳飛の冤罪が晴れ、官職の回復と改葬が行われた。淳熙5年(1178年)、武穆と諡され、嘉泰4年(1204年)には鄂王に追封された。
杭州の西湖のほとりには岳王廟が建立され、岳王廟の岳飛・岳雲父子の墓の前には、彼らを陥れた秦檜夫婦・張俊らが縄で繋がれた形で正座させられている像が造られている。近年は当局により禁止されているが、かつては彼らに唾を吐きかける風習があった。
岳飛は後代、救国の英雄として称えられた。現代でも中国の歴史上の英雄と言えば、まず岳飛の名前が挙がるほどである[要出典]。
家族
岳飛を扱った作品
- 『岳墳忠蹟』(がくふんちゅうせき) 古呉墨浪子編 『西湖佳話』[注釈 1]。日本語訳は内田道夫[注釈 2] 訳 『岳墳の忠跡』がある。平凡社 中国古典文学大系 39 1969年 p.340-361、 ISBN 9784582312393
- 説岳全伝 - 清代の小説。田中芳樹によるリライト『岳飛伝』がある。
- 岳飛伝 - 岳飛を主人公とした北方謙三の小説。
- 岳飛伝 THE LAST HERO - 岳飛を主人公とした2013年の中国のテレビドラマ。
- 少年岳飛 - 岳飛を主人公とした2011年の中国のアニメ映画。
- 満江紅/マンジャンホン - 岳飛の残した詞の「満江紅」を題材とした2023年の中国映画。チャン・イーモウ監督。
