岸吉松
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渡米
1906年に合衆国に移入した岸は、稲作に適した土地を求めてカリフォルニア州を皮切りに、南北カロライナへと移動し、やがてテキサス州南東部、ボーモント東郊のオレンジ郡テリーの町にたどり着いた。テリーはテキサス・アンド・ニューオーリンズ鉄道の駅があった町で、製材と農業で栄え、近隣には灌漑に利用できるバイユーが流れる、岸にとっては理想の地であった[1]。岸は1907年、このテリーの地で3,500エーカー(約1,416ha)の土地を購入し、翌1908年に稲の初収穫を得た。やがて岸が創設したこの日本人入植地は「岸コロニー(キシ・コロニー)」と呼ばれ、最盛期には男32人、女5人、子供4人の日本人が住んでいた[2]。
しかし、その後テキサス・ルイジアナ州境を流れるサビーン川の浚渫が行われると、岸コロニーの農業水源として用いていたバイユーにメキシコ湾の海水が流れ込み、稲は損害を受けた。そこに1920年の米価暴落が追い討ちをかけた。そこで岸は綿花・とうもろこし・キャベツ等の栽培や牛の牧畜、石油の採掘に活路を見出した[2]。
石油事業
岸コロニーで1919年に発見された石油は、当時アメリカ合衆国に駐在し、同郷で、ハーバード大学に留学していた山本五十六の関心を引きつけた。1921年、山本は合衆国内の製油施設を視察して回っていた。その山本との会合をきっかけに、岸はオレンジ石油会社を設立した[3]。オレンジ石油会社は設立後数年は成功し、岸は債務を払いきり、なおも土地を購入し続けた。1924年に山本が再度この地を訪れたときも、石油生産は成功を続けていた。
しかし、やがて岸の油田は資源が枯渇し、1925年に採掘が終了した。その後1929年の世界恐慌によって岸コロニーは事実上崩壊した[2][4]。1931年、岸の所有していた土地は抵当に流された。その後、岸一家はテキサスA&M大学を卒業した息子の太郎がテキサス・ルイジアナ州境のオレンジに購入した小さな農場に移り住んだ。
数年後、真珠湾攻撃の後に岸はサンアントニオ近郊のキャンプ・ケネディに2ヶ月間拘留された。その理由は主に以前の山本との会合によるものとされている[4]。しかし、オレンジ郡の有力実業家であったスターク家やシムズ家の影響により、岸は特に制約を受けることなく釈放された。