岸田忠氏 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期生誕 不明死没 元和元年12月2日(1616年1月20日)別名 晴澄 凡例岸田 忠氏時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期生誕 不明死没 元和元年12月2日(1616年1月20日)別名 晴澄墓所 光林寺官位 伯耆守主君 筒井順慶→定次→豊臣秀長→秀保→秀吉→秀頼子 右近テンプレートを表示 岸田 忠氏(きしだ ただうじ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。大和国岸田領主。諱は晴澄(はるずみ)とも[1]。 はじめ大和国の戦国大名・筒井順慶に仕え、2,000石を領したが、筒井家が筒井定次の代に伊賀国へ転封となると、大和を治めた豊臣秀長や養子・秀保に仕えた。 秀保の死後[注釈 1]は豊臣秀吉の家臣となり、大和山辺郡岸田(現在の奈良県天理市岸田町付近)において1万石を賜る。 慶長3年(1598年)8月、秀吉の死に際して遺物則重の刀を受領。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、8月11日に東軍を撹乱するために三河国藤川に放火を試みるが失敗し、町民に武装を解除され、家臣の岸田弥右衛門が処刑された[2]。9月15日の関ヶ原本戦では、豊臣秀頼配下の黄母衣衆として織田信高、伊藤盛正らと小西行長の陣営に加わり戦ったが敗れたため、改易となり、慶長6年(1601年)11月に陸奥国盛岡藩主・南部利直に預けられた。 元和元年(1616年)12月2日死去[1]。享年70余。寺林(現在の花巻市石鳥谷町中寺林)の光林寺に葬られた[3]。 子孫 子の右近も、父と同様に南部家預けになっている[3]。 正保2年(1645年)に定められた盛岡藩の正月儀礼において、岸田右近は宮部兵蔵(岸田家同様、関ヶ原合戦後に南部家に預けられた宮部長熙の子)とともに、高知(たかち)(盛岡藩の重臣家)と同格で参列することとされた[4]。岸田右近は寛文元年(1662年)に嗣子なく没し、岸田家は断絶した[3]。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』は、秀吉に仕えた年を文禄3年(1594年)とする[1]。秀保の没年は文禄4年(1595年)とされるが、文禄3年(1594年)説もある。 出典 1 2 3 “岸田晴澄”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2024年9月29日閲覧。 ↑ 須田茂『徳川大名改易録』(崙書房出版、1998年)101頁 1 2 3 “慶長五年 利直代より著者伊藤祐清の死去の時まで”. 近世こもんじょ館. 2024年9月29日閲覧。 ↑ “16 重直公正保中年頭御礼式仰せ出さること 「篤焉家訓」”. 近世こもんじょ館. 2024年9月29日閲覧。 Related Articles