峯崎薬品
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終戦後の大阪地区の医薬品卸業者は塩野義製薬系の大阪薬品、武田薬品系の厚和薬品、稲畑産業系の重松本店、田辺製薬系の峯崎薬品、藤沢薬品系の扇薬品、中外製薬系の新王薬品、三共系の関西薬品、エーザイ系の日本商事、田辺製薬系の田辺薬品、大衆薬では岩城薬品(イワキ)、中村滝商店大坂支店等が市場のシェアを奪い合っていた。
田辺製薬は終戦後の苦難期をなかなか乗り越えられず、1954年(昭和29年)には無配に転落した。そのため有力卸が相次いで離脱する事態に陥り、販売網の弱体化により会社存亡にかかる危機となった。1957年(昭和32年)から1958年(昭和33年)にかけて経営危機を脱し、再建は軌道に乗り始めた。同社は自社ブランドの販売ルートの整備・拡大のため、販売組織を再編すべく、大坂の系列卸である峯崎薬品と田辺薬品の合併を進めた。
両社は1958年(昭和33年)8月に合併提案を提示されたが、田辺製薬中心の営業基盤では、激烈な大阪地区では生き残れないと考え、一旦は2社とも提案を拒否した。これを受けて田辺製薬は、自社製品を独占的に販売する大阪田辺販売株式会社を設立し、2社とも準特約店に降格させた。このとき、峯崎薬品は大分地区での乱売により本社組織の再建が急務であったため、この条件をのみ、田辺峯崎株式会社が発足した。
田辺峯崎の発足を受けて、大阪田辺販売は解散した。一方の田辺薬品は、田辺製薬から準特約店契約も取り消され、同社に頼っていた売上分(30%)を山之内製薬等からの援助で補うようになり、山之内製薬系の医薬品卸となり再出発した。
なお田辺製薬は、田辺峯崎以外にも北村薬品に出資し、栄一薬品として系列傘下とし大阪市場の流通拡大を図った。
会社概要
- 代表取締役社長 - 峯崎慶三郎
- 資本金 - 500万円