島丹誠堂図案社
From Wikipedia, the free encyclopedia
1902年(明治35年)に、島欽一が銀座・瀧山町にあった東京朝日新聞本社の隣で創業した。
当時の銀座は、東京五大新聞(東京日日新聞、報知新聞、時事新報、國民新聞、東京朝日新聞)が進出し、1883年10月の「時事新報」で福沢諭吉が新聞広告の有用性を説いたことで、弘報堂、廣告社、時事通信社などの広告代理店も多数開業した。そのような中で島丹誠堂が広告図案の商売を始めると、これらの図案作成を一手に引き受けることになり、新聞社のほか大手雑誌社、一流化粧品メーカー、製薬会社など、300件の固定客を抱えた[2]。
大正期には数寄屋橋前(現、銀座ソニーパークの一角)に移り[3]、1930年(昭和5年)には同地に社屋を建設した[4][5]。
島丹誠堂が扱う広告図案は、新聞や書籍などの口絵・広告、チラシ広告、カタログやポスターの図案、企業や店舗の看板・ロゴマークなど多岐にわたった。1935年当時の就職誌では「(図案工について)数多の種類に分かれるが、書家でもなく看板屋でもない職業で、文案家に対抗する独自の書工である。東京では京橋の島丹誠堂が有名だが、その他に何々図案社と言った会社が数え切れない程ある。」と紹介されている[6]。
1990年頃、閉店[要出典]。