慶應義塾普通部では1年生からレギュラー遊撃手であった[1]。
慶應義塾大学へ進学すると捕手にコンバートし[1]、1906年秋に中止となった早慶戦にも出場していた[2]。また、ハワイ遠征やアメリカ遠征に参加した[1]。強肩で有名であり、二塁送球が鮮やかと評され名物であった[1]。
大学卒業後は「島田善介」と改名し、引き続き三田倶楽部でプレー[1][2]。
1922年11月に来日した米大リーグ選抜チームとの試合では小野三千麿とバッテリーを組み9対3で勝利し、自身も1回にホームランを打っている[1][2]。
晩年は日本学生野球協会審査委員、副会長を歴任した[1][2]。
1955年1月29日に慶應病院で死去[1]。1969年に野球殿堂入り。