崔亀従
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崔誠の子として生まれた。崔璜(唐州刺史の崔暉の子)の孫にあたる。元和12年(817年)、進士に及第し、さらに賢良方正科と書判抜萃科に登第して、右拾遺を初任とした。大和2年(828年)、太常寺博士に転じた[1][2]。
亀従は礼学に長じており、歴代の沿革に詳しかった。敬宗の廟から「孝弟」の2字を除くよう意見した。また九宮壇の祭祀が大祠とされていたが、中祠に降格するよう請願した。また文武三品以下の官が死去したときに、皇帝の政務を取りやめることのないよう意見した[3][2]。
亀従は官を歴任して考功郎中・史館修撰に累進した。大和9年(835年)、司勲郎中・知制誥に転じた。12月、中書舎人に任じられた。開成元年(836年)、華州刺史として出向した。開成3年(838年)3月、戸部侍郎となり、判戸部司事をつとめた。開成4年(839年)、判吏部尚書銓事をつとめた。大中4年(850年)、中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)となり、吏部尚書を兼ねた。大中5年(851年)7月、『続唐暦』30巻を編纂して完成させ、奏上した。大中6年(852年)、宰相を退任し、検校吏部尚書となり、汴州刺史・宣武軍節度・汴宋亳潁観察等使として出向した。節度使を歴任して死去した[4][2]。