滄州観察支使の崔光表の子として生まれた、文学の才能があり、長蘆県令を初任とした。入朝して監察御史・右補闕を歴任した。外任を求めて、泰寧軍節度判官に任じられた。後漢の泰寧軍節度使の慕容彦超の不法を座視することができず、慕容彦超を強く諫めた。後周の広順2年(952年)、周度は慕容彦超の命を受けて閻弘魯の隠し財産を調査したが、何も出てこなかった。慕容彦超は信じず、周度と閻弘魯を獄に下した。閻弘魯の乳母が泥中で金纏を得たとして慕容彦超に献上すると、慕容彦超は激怒して周度を市で斬らせた。慕容彦超の乱が平定されると、周度は秘書少監の位を追贈された。