閻弘魯
From Wikipedia, the free encyclopedia
後唐の天平軍節度使の閻宝の子として生まれた。後唐の明宗李嗣源や後晋の高祖石敬瑭に仕えて、官を歴任した。陝州司馬のとき、病を理由に郷里に帰った。慕容彦超が泰寧軍節度使となり、弘魯は礼遇されること厚かった[3]。
後周の広順2年(952年)、慕容彦超が反乱を計画すると、弘魯の子の閻希俊が澶州節度副使として柴栄の幕下にいるのを憎んだ[3]。弘魯は慕容彦超に鞭打たれるのを恐れて、家財を貢献した。慕容彦超はまだ弘魯が財産を隠しているものと疑い、崔周度に命じて弘魯の家を捜索させたが、何も出てこなかった。慕容彦超は信じず、弘魯と崔周度を獄に下した。弘魯の乳母が泥中で金纏を得たとして慕容彦超に献上すると、慕容彦超は激怒して弘魯夫婦の肉が爛れるまで鞭打ち、死なせた[4]。慕容彦超の乱が平定されると、弘魯は左驍衛大将軍の位を追贈された[5][6]。