崔損
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崔行功の玄孫にあたる。大暦末年、進士に及第し、博学宏詞科に登第した。秘書省校書郎に任じられ、咸陽県尉に転じた。母の兄弟の王翃が京兆尹となると、崔損は大理寺評事となり、兵部郎中に累進した。貞元11年(795年)、右諫議大夫となった[3][2]。
貞元12年(796年)、右諫議大夫のまま同中書門下平章事(宰相)となり、紫金魚袋を賜った。貞元14年(798年)秋、平章事のまま門下侍郎に転じた。この年、昭陵の旧宮が野火のため焼けると、崔損はその再建を命じられて、八陵修奉使をつとめた[4][2]。
徳宗の建中年間以後、宰相は長らく在任した者がおらず、数年で罪に落ちる者ばかりだったが、崔損は徳宗の意にかなって8年のあいだ大任をつとめた。貞元19年(803年)、死去した。太子太傅の位を追贈された。諡は靖といった[5][2]。