崔昂
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崔孝暐の子として生まれた[3]。7歳のときに父を失い、伯父の崔孝芬に養育されて、「吾が家の千里の駒なり」と評された[1][2][3]。初め元天穆に召されて参軍となった。次いで伏波将軍の号を加えられ、給事中に任じられた。後に中堅将軍の号を加えられ、奉車都尉に転じた。さらに定州刺史高琛の属官をつとめた[4]。天平2年(535年)、高澄に召し出されて記室参軍となり、腹心の任を委ねられた[1][2][6]。
高澄が輔政の任につくと、崔昂はその下で開府長史となった。この頃、東魏の勲臣の兵客には放埒で不法なふるまいに及ぶ者が多く、特に孫騰と司馬子如の一門には甚だしいものがあった。崔昂は高澄の密旨を受けて、不法行為に及ぶ者たちを逮捕したので、都下の風紀は粛然とした。崔昂は尚書左丞に転じ、度支尚書を兼ねた[7][2][8]。
天保元年(550年)、北斉が建国されると、崔昂は散騎常侍に転じ、太府卿・大司農卿を兼ねた。横市の濫費314条を奏上して聞き入れられた。また邢卲とともに国初の礼を定め、華陽県男に封じられた。さらに律令の制定を命じられて、薛琡ら43人とともに領軍府で協議して定めた。廷尉卿に転じ、不正な蓄財に対して厳しく処断した[9][10][11]。
天保10年(559年)、崔昂は尚書右僕射を兼ね、数日後に正式に右僕射となった。文宣帝が死去すると、僕射の任を解かれ、儀同三司・光禄勲の位を受けた。皇建元年(560年)、太常卿に転じた。河清元年(562年)、御史中丞を兼ねた。従甥の李公統が高帰彦の事件に連座して処刑されると、崔昂は官爵を剥奪された。河清3年(564年)、五兵尚書として復帰し、祠部尚書に転じた[12][10][13]。天統元年(565年)6月29日、病が嵩じて鄴の遵明里の家で死去した。享年は58。趙州刺史の位を追贈された[14]。