崔昌植
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| 崔 昌植 | |
|---|---|
| 各種表記 | |
| ハングル: | 최창식 |
| 漢字: | 崔 昌植 |
| 発音: | チェ・チャンシク |
| 日本語読み: | さい しょうしょく |
| 各種表記(創氏改名・通名) | |
| 漢字: | 高山隆 |
| 発音: | たかやま たかし |
崔 昌植(チェ・チャンシク、최창식)は大日本帝国陸軍及び大韓民国陸軍の軍人。創氏改名時の日本名は高山隆。平壌出身。
1942年、陸軍士官学校工兵科卒業(56期)。卒業後は同期の数名と共に第104師団に配属となり、工兵学校の実施教育の関係で1943年5月頃に単身で広東に赴任した[1]。工兵第104連隊で現役幹部の少ない中で作戦や教育訓練で部隊長の片腕として活躍した[1]。1944年6月下旬に開始された湘桂作戦に工兵小隊長として参加[1]。第2次世界大戦終戦時は華南の工兵第104連隊附(大尉)[2]。
1948年8月、韓国軍入隊、任少尉(軍番12318番)。韓国軍工兵の創設に任じ、第1工兵団長を経て同年12月に陸軍本部工兵監。
1950年6月の漢江橋過早爆破の責任を問われ、同年9月21日に釜山で銃殺刑に処された。残された妻の玉静愛は生活苦と戦いながら、李承晩政権に夫の無罪をを確認する陳情書を起案したり、政府要人を訪ねたりしたが相手にされなかった[3]。朴正煕政権になって、尹泰日など工兵科同僚の援助により再審が進められ、1964年10月23日に再公判で正当性が認められ名誉回復。
玉静愛は積年の累積した心身の疲労により、1967年10月23日、息子の崔炳旭を残して心臓麻痺で急逝[3]。崔昌植の両親は名誉回復前に他界し、実兄も処刑後仏門に入り僧侶となっており、玉静愛の姉の玉静端が崔炳旭を引き取った[3]。