崔知温

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崔 知温(さい ちおん、627年 - 683年)は、唐代官僚政治家は礼仁[1]本貫許州鄢陵県[2][1]

はじめ左千牛衛千牛備身となった。麟徳2年(665年)、霊州大都督府司馬に累進した。霊州の境に渾と斛薛の部落1万帳あまりがあって、たびたび漢人の住居に侵入して略奪していたことから、人々は農業をやめ、騎射を習ってこれに備えていた。知温は上表して渾と斛薛の部落を河北に移すよう求めた。斛薛は移転を望まず、将軍の契苾何力がそのことを高宗に言上したため、移転のことは取りやめになった。知温は前後15回にわたって上奏して、ようやく聞き入れられ、民衆たちは農耕に従事できるようになった。のちに斛薛が入朝するにあたって、霊州に立ち寄ると、「以前は公が私たちを河北に移そうと上奏するのを恨みに思っていましたが、実際に移ってみると、牧地は豊かで水草にも不足しないので、部落は日ましに富み、公の恩に感謝しているところです」といって、平伏して去った[2][1]

知温は四度異動して蘭州刺史となった。ときに党項の3万あまりの軍が金城県を攻撃したが、城内の兵は少なく、抵抗もおぼつかなかった。知温は城門を開いて党項を誘い入れようとすると、党項は伏兵があるのを恐れて、あえて進まなかった。まもなく将軍の権善才が兵を率いて救援にやってきて、党項の軍を破った。権善才は降伏した党項の兵を全員穴埋めにしようとしたので、知温は説得して止めさせた。また権善才は降伏した者のうち500人を知温に与えようとしたが、知温は固辞して受けなかった。このため党項の残党もみな降伏し帰順してきた[2][1]

知温は尚書左丞に累進した。黄門侍郎となり、修国史を兼ねた[2][1]調露2年(680年)4月、同中書門下三品となった[3]永隆2年(681年)7月、中書令に転じた。永淳3年(683年)3月、死去した。享年は57。荊州大都督の位を追贈された[4]は忠といった[2][1]

家族

脚注

伝記資料

参考文献

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