川崎寅雄 (アラビスト) From Wikipedia, the free encyclopedia 川崎 寅雄(かわさき とらお、1914年 - 1976年)は、日本のアラビストの草分けとされる人物[1]。第二次世界大戦中は外務省職員、海軍司政官の職務に就き、戦後は石油関連の通訳などを経て、創価大学でアラビア語を教えた[1]。アラビア語・日本語の言語辞典(英語版)としては初となる『アラブ語辞典』を完成させ、1963年自費出版により出版した[1]。 川崎寅雄は1914年に茨城県久慈郡久慈町(現 日立市)の漁師の網元の家に生まれた[1]。名古屋高等商業学校(学制改革後は名古屋大学に統合)に進学し、すべての学費を免除される優秀な成績で卒業した[1]。外務省留学生試験に合格し、21歳でエジプトの国立カイロ大学に留学した[1]。カイロ大学卒業後はエジプト、レバノン、バグダードなどアラビア語圏の公使館に勤務した[1]。その後、一時日本に戻るが、1944年に海軍司政官としてインドネシアに派遣された[1]。日本帰国中には大久保幸次が設立した純学術調査機関である回教圏攷究所(1938年発足)の嘱託所員として活動している[2][3]。 太平洋戦争の敗戦をインドネシアで迎え、セレベス(スラウェシ)島で2年以上留まった[1]。司政官は文民なので、川崎は引き揚げ船に乗って帰ることができたが、BC級戦犯の容疑をかけられた約100人近くの日本軍軍人を弁護するためセレベスに留まった[1]。裁判はインドネシアの旧植民地宗主国の言語であるオランダ語で行われ、さらに日本政府は弁護人を派遣しなかったため、川崎はオランダ語と法律を急ごしらえで学び、自主弁護団13人を組織して裁判に臨んだ[1]。 裁判が終結し、川崎が日本に帰国したとき、敗戦から3年が経過していた[1]。ところが外務省は川崎が自主的にBC級戦犯の弁護をした行為を歓迎せず、川崎は外務省を退官した[1]。外務省を辞めてからはアラビア石油調査役として海上油田開発事業に参加した[1]。その後、東京外国語大学助教授を経て、1971年に創設された創価大学の教授に就任した[1]。1976年に死去[1]。 著作 アラビア語・日本語の言語辞典(英語版)としては初となる『アラブ語辞典』を完成させ、1963年自費出版により出版した[1][4]。当時、アラビア文字の活字は日本のどこにも存在しなかった[1]。そこで川崎は、アラブ諸国の小学校から教科書を取り寄せ、単語を切り貼りするという「写植」方式で辞書を作った[1]。 さらにその後の1975年には、これも初となる日本語・アラビア語の言語辞典を完成させ、同様に自費出版で出版した[1][4]。これらのほかに、『東アラビアの歴史と石油』(吉川弘文館、1967年)、『アラブの近代文学』(潮出版社、1971年)など、多数の著書がある[4]。 典拠 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 桜井良「エッセイ「日本で初めてアラブ語辞典を発刊した川崎寅雄」」『アラブ・スタディーズ(Arab Studies)・月報』第8巻、一般財団法人昭和経済研究所「アラブ調査室」、2021年、2025年12月12日閲覧。 ↑ 川村, 光郎「戦前日本のイスラム・中東研究小史 : 昭和10年代を中心に」『日本中東学会年報』第2巻、1987年、409-439頁、doi:10.24498/ajames.2.0_409、2025年12月15日閲覧。 ↑ 大澤, 広嗣「昭和前期におけるイスラーム研究 : 回教圏研究所と大久保幸次(<特集>イスラームと宗教研究)」『宗教研究』第78巻第2号、2004年、493-516頁、doi:10.20716/rsjars.78.2_493、2025年12月15日閲覧。 1 2 3 “CiNii 著者検索結果 川崎, 寅雄”. 国立情報学研究所. 2025年12月17日閲覧。 Related Articles