左 豊(さ ほう、生没年不詳)は、後漢末の宦官。官位は小黄門。『後漢書』、『資治通鑑』にその名が見られる[1][2]。
中平元年(184年)6月、霊帝により広宗にて黄巾の乱の指導者張角と対峙中であった盧植に対する視察のため派遣された。盧植は左豊に賄賂を送ることを勧められたが、これを拒んだ。帰還した左豊は、「広宗の賊を破るのは容易だが、盧植は守りを固めて軍を進めず、天誅を待っている」[3]と報告。霊帝はこの報告によって怒り、盧植は死罪こそ免れたものの囚人として捕らえられた[1][2]。
『三国志演義』では、護送中の盧植と劉備の会話中に登場。左豊への賄賂を拒んだ結果、讒言されたことが語られる[4]。