巨勢邑治
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持統天皇7年(693年)事情を知りながら官物を盗難させたため、冠位を二階下げられた上で監物の官職を解任された[1]。内蔵寮允・大伴男人ら他の関係者も断罪されており、内蔵寮の倉庫から官物を盗み出した横領事件と推測される[2]。
文武天皇5年(701年)正月に務大肆・三河守の官位にあったが、遣唐使大位(三等官)に任ぜられる。同年3月の大宝令による位階制度の制定を通じて従五位下に叙爵。同年唐に向けて出航するも風浪が激しくて渡海できず、その後遣唐使節の交替があって邑治は遣唐副使に昇格し、翌大宝2年(702年)6月に唐に渡る[3]。遣唐執節使・粟田真人らは慶雲元年(704年)帰国するが、邑治は唐に残留し、白村江の戦いで捕虜になっていた者らを連れて慶雲4年(707年)3月に帰国を果たす[4]。渡唐の功労により5月に綿・麻布・鍬・籾を与えられ、8月に位階を進められた(正五位上か)。
元明朝に入り、和銅元年(708年)播磨守に任ぜられると、和銅5年(712年)従四位下、和銅8年(715年)従四位上・右大弁に叙任されるなど、要職を務めて順調に昇進する。
元正朝では、養老2年(718年)中納言に任ぜられて公卿に列すと、養老3年(719年)正四位下・摂津国摂官、養老5年(721年)従三位と急速に昇進を果たした。