市原正雄
From Wikipedia, the free encyclopedia
1913年(大正2年)11月7日、京都府南桑田郡篠村(現在の京都府亀岡市篠町)に生まれる[3]。亀岡尋常小学校(現在の亀岡市立亀岡小学校)卒業後、京都府立亀岡農学校(現在の京都府立亀岡高等学校)に進学[3]。1931年(昭和6年)、立命館大学専門部2部法学部に入学[3]。
農学校時代から陸上競技を行っていたが[3]、大学専門部入学後に本格的に400mハードルを始める[4]。日本学生対校選手権、日本陸上競技選手権大会、明治神宮体育大会など各種大会で400mハードル種目に出場[3]。また、京都学生駅伝にも出場して活躍した[3]。
1934年(昭和9年)5月16日[5]、初の国際大会出場となる[3]極東選手権大会(マニラ)で400mハードルを走り、3位ながらも[3] 当時の日本学生記録(55秒1)をマークした[5]。1934年(昭和9年)・1935年(昭和10年)と日本学生対校選手権と日本選手権を連覇[3]。1935年(昭和10年)には第6回国際学生陸上競技選手権(ブダペスト)の予選会で自らの日本学生記録のタイ記録(55秒1)を出し[3][5]、日本代表に選ばれたが、急病を得て代表を辞退することとなった[3]。1935年(昭和10年)11月の明治神宮大会では55秒6で優勝[3]。
1936年(昭和11年)、ベルリンオリンピックの日本代表選手に選ばれる[3]。男子400mハードルおよび男子の4×400メートルのリレーに出場したが、ともに予選通過はならなかった[3]。当時、予選で敗退した場合には記録も公式記録として認められなかったため未公認記録となったが、400mハードルの54秒7は自己最高記録となった[3]。
立命館大学卒業後の1937年(昭和12年)、札幌鉄道局に就職[3]。各種競技会に参加しており、1937年(昭和12年)・1938年(昭和13年)と明治神宮大会青年団競技で400m競走で2連覇した[3]。戦時中は出征し、終戦により復員した[3]。
脚注
- ↑ 「Japanese Delegation of Athletics Team : Rio de Janeiro 2016」(PDF)、日本陸上競技連盟、2016年、2019年10月10日閲覧。
- 1 2 “MASAO ICHIHARA”. IOC. 2019年10月10日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 “<懐かしの立命館>立命館初のオリンピック出場選手~市原正雄~陸上競技と共に輝き続けた人生”. 立命館 史資料センター. 2019年10月15日閲覧。
- ↑ “<学園史資料から>「立命館 スポーツと平和」 展示開催”. 立命館 史資料センター. 2019年10月15日閲覧。
- 1 2 3 “日本学生記録の変遷 男子400mH”. 日本学生陸上競技連合. 2019年10月15日閲覧。
関連項目
- 原田正夫 - 同郷(亀岡出身)で1歳年上。400mハードル種目で市原と競い合った。
| 1920年代 | |
|---|---|
| 1930年代 | |
| 1940年代 | |
| 1950年代 | |
| 1960年代 | |
| 1970年代 | |
| 1980年代 | |
| 1990年代 | |
| 2000年代 | |
| 2010年代 | |
| 2020年代 | |
この項目は、陸上選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:陸上競技/PJ陸上競技)。 |