市来龍夫
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市来 龍夫 | |
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1941年の市来 龍夫 | |
| 生誕 |
市来 龍夫 1906年 日本 熊本県多良木町人吉近郊 |
| 死没 |
1949年1月9日(42–43歳没) インドネシア 東ジャワ州マラン県ダンピット |
| 埋葬地 | インドネシア ジャカルタ カリバタ英雄墓地 |
| 別名 | アブドゥル・ラフマン |
| 職業 | 写真家、編集者、軍人 |
| 配偶者 | イティ・マリアム |
| 子供 | ムフタル・スナニ |
| 受賞 | マハプトラ勲章ナラリヤ (1958年) |
市来 龍夫(いちき たつお)、ムスリム名アブドゥル・ラフマン(1906年、日本の熊本県多良木町生まれ[1] - 1949年1月9日、東ジャワ州マランダンピットにて没)は、インドネシア独立戦争期にインドネシア側に寝返った写真家、軍人である。
1906年、生誕。市木は6人兄弟の3番目の子供である。幼少期に両親が離婚し、母親に育てられた[2]。辰雄は中学生の頃に学校を辞めざるを得なくなり、後に写真スタジオで写真家として働いた。
1928年に初めてオランダ領東インド(現在のインドネシア)を訪れ、南スマトラ州パガル・アラムにある友人の鶴岡和夫の写真館で働いた[2]。
1933年に弟の直広が亡くなりバンドンに移住。何度か転職を繰り返した後、タツオはついにスメダンの村に住むイティという娘の家に身を寄せた。その後転職を繰り返しながら、インドネシア語で地元の新聞に投書活動を行っていた。
バンドンの日本人クラブの幹部である町田泰作は、 反オランダ派でアジア主義を主張する久保達治が経営する日蘭商事新聞 に辰雄を推薦した。龍夫はイティを連れ、ジャカルタに移り、記者となった。そこで盟友となる、吉住留五郎と知り合う。1937年7月、同紙はジャワ日報と合併し、東インド日報と改名した が、反オランダ路線は変わらなかった。
1938年、 東インド日報計画 をより具体的に協議するため、辰雄は東京に戻った。しかし、反オランダ活動を理由に、オランダは彼のジャワ島への帰還を拒否した。そこで辰雄は外務省アジア太平洋局と陸軍参謀本部で非常勤研究員として働いた。この間、辰雄は日本人の友人が密かに日本に送り込んだインドネシア独立運動家のジョセフ・ハッサと親しくなり、二人はインドネシア独立について頻繁に話し合った。
日本占領下の1943年10月、市来はボゴールの防衛義勇軍(Peta)教育部門でパートタイムの職員として働いた。そこで彼は軍事雑誌の編集者および語学顧問としての役割を果たした[2]。