帰登

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帰 登(き とう、754年 - 820年)は、唐代官僚は沖之[1][2]本貫蘇州呉県[3][4]

帰崇敬の子として生まれた。継母に仕えて孝行で知られた。大暦7年(772年)、孝廉に挙げられ、四門助教に任じられた。貞元元年(785年)、さらに賢良方正科に登第し、美原県尉から右拾遺に任じられた。ときに徳宗裴延齢を宰相に取り立てようとしたため、諫議大夫の陽城が上疏して諫め、徳宗を激怒させた。右補闕の熊執易らがまた徳宗の意に逆らって言上しようとした。帰登は熊執易の上奏文の草稿を見せられると、諫言の列に加わった。右補闕・起居舎人に転じ、3期15年をつとめた。のちに兵部員外郎に転じ、皇太子侍読をつとめた。ほどなく史館修撰を加えられた[5][6]

貞元21年(805年)、順宗が即位すると、東宮時代の旧恩により、帰登は給事中に抜擢された。のちに工部侍郎となった[7][8]元和4年(809年)、皇太子侍読となり、「龍楼箴」を献上して諫めた[9]。元和6年(811年)、憲宗の命を受けて孟簡劉伯芻蕭俛とともに『大乗本生心地観音経』を翻訳した[10]。長らくを経て、左散騎常侍の位を受けた。兵部侍郎に転じ、判国子監事を兼ねた。元和14年(819年)、工部尚書となった。元和15年(820年)、死去した。享年は67。太子少保の位を追贈された。は憲といった[7][8]

子の帰融が後を嗣いだ[7][8]

脚注

伝記資料

参考文献

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