蕭俛

From Wikipedia, the free encyclopedia

蕭 俛(しょう ふ、生年不詳 - 842年)は、唐代官僚政治家は思謙[1][2]

貞元7年(791年)、進士に及第した。元和元年(806年)、さらに賢良方正科に登第し、右拾遺に任じられ、右補闕に転じた。元和6年(811年)、翰林学士をつとめた。元和7年(812年)、司封員外郎に転じた。元和9年(814年)、翰林学士のまま駕部郎中知制誥となった。元和12年(817年)、張仲方李吉甫諡号を贈ることに反対し、憲宗の怒りを買って左遷された。蕭俛は張仲方と仲が良かったことから、翰林学士から罷免され、太僕寺少卿に降格された[1][2]

元和13年(818年)、皇甫鎛が宰相となると、蕭俛は皇甫鎛の推薦を受けて、御史中丞に任じられた。元和14年(819年)、令狐楚が宰相となると、蕭俛は皇甫鎛と令狐楚の推薦を受けて、奉議郎・飛騎尉の階位に進み、父の徐国公の爵位を嗣ぎ、緋魚袋を賜った。元和15年(820年)閏1月、穆宗が即位すると、蕭俛は中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)に任じられた。8月、門下侍郎に転じた。10月、吐蕃が涇原に侵攻してくると、穆宗は宦官の使者に命じて禁軍を援軍に送った。蕭俛は穆宗の諮問を受けて、戦闘を可能なかぎり避けるよう返答した[3][2]

令狐楚が宰相を退任し、剣南西川節度使の王播が宦官に賄賂を贈って宰相の地位を求めると、蕭俛は王播を弾劾したが、穆宗に聞き入れられなかった。蕭俛は三度上章して宰相からの退任を求めた。長慶元年(821年)1月、宰相から退任し、尚書右僕射となった。蕭俛は段文昌とともに兵を休養させるよう穆宗に勧めた。10月、兵部尚書に転じた。長慶2年(822年)、病を理由に分司東都の任を求めたが、許可されなかった。3月、太子少保となった。宝暦元年(825年)、同州刺史に任じられた。宝暦2年(826年)、太子少保・分司東都となった[4][5]

文宗が即位すると、蕭俛は検校尚書左僕射・太子少師となった。蕭俛は病が重いと称して、宮中に赴かず、辞任を願い出た。銀青光禄大夫の位を加えられ、尚書左僕射として致仕した[6][5]

大和8年(834年)、蕭俛は荘恪太子李永を輔導する人物として求められ、太子少師とされた。病のため固辞し、太子太師として致仕した[7][5]会昌2年(842年)2月1日、死去した[8]

家族

  • 曾祖父:蕭嵩
  • 祖父:蕭華
  • 父:蕭恒(殿中侍御史)[1][9]
  • 母:韋氏(韋斌の娘)[7][5]
  • 弟:蕭俶(兗州刺史・兗海沂密節度使、太子少保・分司東都)[10]
  • 弟:蕭儹
  • 弟:蕭佐
  • 弟:蕭傑(字は豪士、検校工部郎中・鳳翔隴右観察判官)

脚注

伝記資料

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI