常思
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河東牙将の常仁岳の子として生まれた。李存勗が晋王となり、広く精鋭の兵を募集すると、常思は敏捷勇猛なことからこれに応募し、軍役に従事した。のちに長直都校となり、奉聖軍使を歴任した。後晋のはじめ、六軍都虞候に転じた。劉知遠が太原府に駐屯すると、常思は劉知遠に従い、河東牢城都指揮使となった[1][2]。
天福12年(947年)、後漢が建国されると、常思は検校太保となり、威勝軍節度使を遥領した。後漢が中原を平定すると、常思は検校太尉・昭義軍節度使に転じた。乾祐元年(948年)、河中節度使の李守貞が反乱を起こし、郭威が李守貞を討つと、常思は朝廷の命を受けて郭威を補佐した。兵を統御する能力がなく、潞州に帰された。常思は潞州にいることおよそ5年、収奪をもっぱらにして評判が悪く、性格も吝嗇で、幕僚に酒肴をふるまったこともなかった[1][2]。
後周の広順元年(951年)、太祖郭威が即位すると、常思は同平章事を加えられた。常思の妻が入朝すると、太祖は家人の礼を取って、叔母と呼んだ。広順2年(952年)秋、常思は入朝して、侍中を兼ね、帰徳軍節度使となった。広順3年(953年)夏、宮中に赴き、平盧節度使に任じられた。着任してほどなく中風の病にかかり、病身を押して洛陽に帰った。顕徳元年(954年)春、死去した。享年は69。中書令の位を追贈された[3][4]。