平子氏
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出自
歴史
「周防平子系図」では通継、「越後平子系図」では三浦為通の子次長(久良木三郎)をその祖としている[5]。一族は武蔵国久良岐郡平子郷(現在の横浜市磯子区・中区・南区)を領地として勢力を振るったとされる。
平安末期には平子有長が源頼朝方の武将として『吾妻鏡』に登場する[3]。例えば、平子有長と見られる「馬允有長」が源義経同様、無断で官位を朝廷より受領し、源頼朝から叱責された記述がある[1]。有長は『曽我物語』にも登場し、仇討ち後、源頼朝の陣屋に乱入しようとした曾我祐成と最初に切り結んだ人物として描かれている[3]。
貞永2年(1233年)には有長の弟である経長の孫とみられる経久が越後国山田郷地頭職を安堵された[1]。 また、同時代には平子重経がおり、建久8年(1197年)に周防国吉敷郡仁保の地頭職を得た[6]。 このように、鎌倉時代になると、越後国・周防国に所領を得て勢力を伸ばした。
平子氏居城・磯子城址近くに所在する岡村天満宮は源頼朝の御家人だった時代に平子氏により造営された。また、真照寺は平子有長が中興し、宝積寺とともに菩提寺とした[7]。
戦国期には、周防平子氏(仁保氏)が大内氏の重臣として活躍し[8]、のち名字を「三浦」に改めて長州藩の藩士となった[9]。 また、越後平子氏は上杉謙信の軍に従軍した記述が見られ[10]、所領の位置などから重要な国人であった可能性が指摘されているが、御館の乱以降上杉景勝の代になると、上杉家の記録から姿を消す。平子氏の末裔を名乗る家系には、関ヶ原の戦いの敗戦後、米沢領へ落ちのびたという言い伝えが残っている[11]。
平子氏は16世紀まで名字の地である武蔵国平子郷と関係を持ち[12]、郷内の宝金剛院へ宛てた嘉吉2年(1442年)の寄進状は「横浜」という地名の初見である[13]。永正9年(1512年)には、伊勢宗瑞と子の氏綱が「平子牛法師丸」に宛てて郷内本牧の制札を与えている[14]。しかし、天文11年(1542年)の時点ではすでに蒔田吉良氏の所領となっており、後北条氏の江戸城攻略に伴って本領である平子郷を失ったと推測されている[14]。