1908年に中洲村で誕生した。中洲小学校を卒業後[2]、12歳で製糸工場の女工となった[1][3]。家は伊藤千代子の家に近く、夏場に帰省すると千代子から労働問題についての話を聞いて、千代子の影響を強く受け育った[3]。労働農民党の責任者である上条寛雄からも影響を受けて、社会主義に傾倒した[4]。
1927年(昭和2年)夏の帰省時、伊藤千代子に連れられて労働農民党の上諏訪支部を訪れ、同支部に出入りするようになった。『無産者講話』『空想から科学へ』『プロレタリア経済学』などの本を読みふけり、労働環境の改善を考え始めた[3]。
同1927年12月に上京し、伊藤千代子の伝手で日本労働組合評議会の事務所での仕事にありついた。さらに千代子により、活動家の河合悦三にハウスキーパーとして紹介された[5]。河合は信越地方の党組織を作る責任者であり、せんも労働運動や無産階級の運動に尽力したいとの思いから[3]、その話を受け入れた[6]。
1928年(昭和3年)1月、河合悦三と共に新潟へ転居した。新潟では河合が組織作りに取り組む一方で、せんは入党前のため[7]、『赤色信越』のための印刷用紙の買い入れ、連絡、小包発送、そして家事を請け負った[8]。また河合の勧めで『赤旗』も読み始めた[8]。やがて河合の呼びかけに応じて共産党へ入党し、『赤色信越』やビラや号外の発行、原稿の執筆と発行の任務を与えられた[8]。『赤色信越』第5号は「製紙女工号」と題した特集号であり[9]、せんは「十二万の女工諸姉に訴ふ」を書き[4]、製紙労働者の組織化の必要性を訴えた[9]。『赤色信越』が製糸労働者の置かれている状況を詳述しているのは、製紙労働の経験者である平林せんが編集に携わっていたためと見る向きもある[10]。
同1928年3月、三・一五事件で検挙された[8]。同1928年9月にはこのことが新聞で「日本共産党秘密結社事件」として報じられ、せんは別枠の写真と記事で「女工上がり」として掲載され、その名が世に広まることとなった[11]。同1928年12月の公判では、せんは入廷の際に網笠をかぶされ、その写真も新聞紙上に大きく掲載された[11]。
釈放後、1930年(昭和5年)末に他の運動家たちと協力して、日本労働組合全国協議会(全協)繊維長野支部を結成し[12]、機関紙『絹糸の友』発行などの活動を行った[13]。検挙の手を逃れるためと、全協繊維本部の仕事もあって上京したが[14]、1933年(昭和8年)に再び検挙された[15]。
翌1934年(昭和9年)には全協の間弓信吾と結婚したが、結核を患い、1940年に清瀬村の病院で、31歳の若さで死去した[15]。没後に平林せんの名は『婦人公論』誌上で、伊藤千代子、同郷の平林たい子と共に、ドイツの女性革命家ローザ・ルクセンブルクに準えて「3人のローザ」として紹介された[16]。