平清経
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寿永2年(1183年)に平家一門が都落ちした後は、次第に悲観的な考えに取り付かれ、大宰府を元家人である緒方惟義に追い落とされたことをきっかけとして、豊前国柳浦にて入水自殺した。享年21。『平家物語』「六道之沙汰」の段で建礼門院による述懐に、清経の死が平家一門の「心憂きことのはじめ」として語られている。
清経が入水したのは現在の大分県宇佐市柳ヶ浦地区・駅館川沖合といわれており、これにちなんで駅館川河口付近に小松塚と呼ばれる五輪塔および慰霊碑が建てられている(「小松」の名は清経の父・重盛が小松殿と通称されたことに由来する)。また、小松塚のたもとにある橋(駅館川河口に最も近い)も小松橋と名付けられている。
また『吾妻鏡』によると平家都落ちの際に吠丸(源義朝により後白河天皇に献上されていた)と鵜丸(源為義に与えられていたが為義の死後に朝廷に戻っている)という宝刀を後白河法皇の御所の法住寺殿から奪っていったという。文治元年(1185年)10月19日に吠丸は大江公朝が探し出し献上、10月20日には源範頼が九州遠征の際に回収した鵜丸を朝廷に献上している。
