平生業成
From Wikipedia, the free encyclopedia
平生業成は以下の語から構成される[4]:
- 平生 - 臨終に対する言葉。生きている間のこと。
- 業 - 業因。往生の因となる行業。
- 成 - 成就、成弁。完成すること。
したがって、「平生業成」とは、臨終往生・来迎要期の義を主張する立場に対して、浄土真宗の法義では、平生に信を獲得した時にただちに往生の業因が成就することを示す教語である。
歴史的展開
「平生業成」という言葉そのものは、蓮如の『正信偈大意』『御文』に多く見られる[5]が、その教義内容は親鸞が明示したことであり、覚如が親鸞の教えを平生業成といい、存覚を経て、蓮如によって特に強調されたとされる[6]。
覚如
覚如は『執持鈔』において、「平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり」と述べ、平生の時に善知識の言葉のもとで帰命の一念を得たならば、その時をもって娑婆の終わり、すなわち臨終と考えるべきであると説いた[7]。 『改邪鈔』には「即得往生住不退転等の経文をもって平生業成の他力の心行獲得の時剋」と記し、はじめて「平生業成」の語を用いている。
『最須敬重絵詞』では、「平生業成の玄旨これにあり、他力往生の深要、尊ぶべし」と結んでいる[8]。
存覚
存覚は『浄土真要抄』において、親鸞聖人の一流では平生業成の義であり、臨終往生の望みを本とせず、不来迎の談であると明言した[9]。ただし、「平生業成というは平生に仏法にあう機にとってのことなり。もし臨終に法にあわばその機は臨終に往生すべし。平生をいわず臨終をいわず、ただ信心を得るとき往生すなわち定まる」と説き、重要なのは信心を得る時点であることを強調している。
また『浄土見聞集』には、「仏法万差なりといえども、浄土真宗はこれ時機相応の法なり」と述べ、平生業成の教義を説いている[10]。
蓮如
蓮如は『御文』において、「当家(浄土真宗)には一念発起平生業成と談じて」と述べ、平生業成の教義を明確に位置づけた[11]。「平生業成というは、重ねて聴聞し阿弥陀仏の本願に疑いはれ往生一定と心が定まったときを、一念発起住正定聚とも平生業成とも即得往生住不退転ともいうなり」と説明している。
また『御文』第一帖五通には、「この信を得たる位を『経』には『即得往生住不退転』と説き、釈には『一念発起入正定之聚』ともいえり。これすなわち不来迎の談、平生業成の義なり」と述べている[12]。
教義の内容
即得往生との関係
平生業成の教義は、『大無量寿経』の成就文に説かれる「即得往生、住不退転」の文に基づく[13]。
親鸞は『一念多念証文』において、「即得往生」の「即」は「すなわち」であり、時を経ず日も隔てないこと、また「つく」であり、その位に定まりつくことであると解釈した[14]。「真実信心を得れば、すなわち、無礙光仏の御心のうちに摂取して、捨てたまわざるなり。納め取りたまうとき、すなわち時・日をも隔てず正定聚の位につき定まるを、往生を得るとは述べたまえるなり」と説いている。
また『末灯鈔』には、「信心の定まるとき、往生また定まるなり」と簡潔に述べられている[15]。
臨終往生との対比
平生業成は、臨終業成に対して区別される言葉である。その意味は、平生と臨終にかかわらず、信を獲得した時にただちに往生が決定するという義である[16]。
報土に往生するのは身命終(肉体の死)の後であるが、往生が決定するのは信の一念の時である。これを平生業成という。したがって、「即得往生」の語には、報土得生(死後の往生)と現生不退(現生における不退転)の二義を含むものとされる。
二種の命終
平生業成の理解に関連して、衆生の命終には二つの時期が区別される[17]:
- 心命終 - 自力を捨てて、本願にたのみ申す一念の時。
- 身命終 - 有漏の体(肉体)を捨てて、浄土に往生する時。
覚如は『最要鈔』において、「善悪の生処を定むることは心命の尽くるときなり。身命のときにあらず」と述べ、極楽に往生することが決定するのは、迷いの心(自力の心)の命が尽きる時(信心を得る時)であって、肉体の命が尽きる時(肉体の死)ではないことを明らかにした。