平田佐貞
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来歴
- 平田商店 → 平田製網 → 平田紡績を経営する平田家の子弟として出生する。双生児であり、佐貞ら双子の兄弟を生んだ生母のたきは、出産後すぐに病没した。遺児となった8男4女の12人の子供は、祖母の(初代平田佐次郎の妻をなに女手一つで養育された。
- 四日市市立富洲原小学校を卒業した後、四日市商業学校(現在の三重県立四日市商業高等学校)に進学した。以下の部活動をした。
- 短艇(ボート)部
- 野球部
- 水泳部
- 陸上競技部
- 登山部
- これらの四日市商業学校の複数の部員として在籍した。
- 運動神経が抜群のスポーツ青年だった。
- 四日市商業学校を卒業後、久居市の陸軍歩兵第33連隊に入営し、1933年(昭和8年)3月、陸軍歩兵少尉に任官される。長兄の佐十郎が病死した後、後継者となった三兄の佐矩が経営する家業の平田製網(平田紡績の前身)を手伝う。しかし家業に馴染まず、自由放漫な生活を送った。
- 1938年(昭和13年)5月、「石谷部隊」に召集されて、その後「沼部隊」に所属した。将来は芸術家として期待されたが、芸術家より陸軍軍人の道を選ぶ。当時(昭和戦前期)は軍国主義の時代であり、青年時代を軍人として生きる選択肢しかなく、日中戦争(支那事変)に参戦する日本兵として中国大陸各地で転戦した。中国では、古代中華帝国(歴代王朝)の古い仏像を収集して、中国の美術史に興味を持ち、中国文化を尊敬していた。仏教の書物を読経する仏教者として動物の肉を食べるのを避け、自身より部下の身を案じたため、佐貞は29歳にして湖北省蘄春県黄白城付近の激しい戦闘で壮烈に戦死した。
- 1938年(昭和13年)5月、石谷部隊に召集されて、その後沼部隊に所属した軍隊生活の日々の日記と、日中戦争で転戦した陣中記録は「志のぶ草」に編纂されている。平田紡績と平田家や三重郡富洲原町によって悲しみの葬儀が行われた。富洲原霊園の富洲原地区出身の戦死者(約500人)の供養施設と三重県護国神社に祀られて遺骨は平田家の墓に葬られた。同時に、靖国神社にも祀られている。亡母を追慕しつつ戦死した短い人生だった[1]。