平田典通が伝えた五色玉については、赤絵の釉薬とする説と、ガラス玉とする説とがある。釉薬説は、『宿姓家譜』に典通の事績として「渡唐上京仕、五色 玉上焼物薬稽古仕り、帰国に...。」とあるのが唯一の根拠である。一方のガラス玉説は、『琉球国由来記』によると当時の技術部門に「瓦工」・「陶工」と別に「玉焼」の工人が独立して記載され、玉焼の項に「五色玉焼、始ニ康熙九年庚戌。宿氏 興那城筑登之典通、今稱二平田一。入レ閩稽古二製作一也。」とあり、また比嘉朝健編『琉球歴代陶工家譜』には王の御冠の玉、唐衣装の提鳴玉、露玉の修復や玉風鈴の製作が記録されており、ガラス玉であると考えられる[6]。