年官
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一種の封禄としての意味を持ち、平安時代初期(淳和・仁明朝)に三宮に給与したのに始まり、当初は院宮(太上天皇・后妃)を対象としていたが、後に他の皇族や公卿、寺社(主に造営費用に充てるため)にも認められるようになり、宇多天皇の時代に制度として確立された[2]。
原則としては、諸国の下級国司(掾・目・史生)の官職が推挙の対象となるが、院宮には一部京官の推挙も認められていた[1]。
一方で地方官にはその国に本籍を持つ者は任命できないという原則が存在していたが、権力者の推挙を背景とした年官はその抜け穴になった。朝廷は現地に本籍を持つ者を推挙することを禁じていたが、年官制度の円滑な運用との板挟みになった結果、10世紀後期にはこれを許容することになり、地方の有力者が年官を利用して地元の国司に任命される道を開くこととなった[3]。
成功(じょうごう)と同じく売官としての性格を持っていたが、在庁官人制度の確立などによって次第に衰退した(平安京在住者は下級国司としての地方赴任を厭い[3]、地方在住者は在庁官人として国司の称号を名乗れるようになったため[4])。一方で、給主が家司などの配下に与えることで給与の代わりとしても用いられており、そちらの意味での年官は引き続き行われていた。
運用
給数
『敍除拾要』[注釈 1]及び『江家次第』・『大間成文抄』によれば、天皇以下に与えられていた年官の給数は以下の通りである[5]。なお、下記に登場する「分」は官職を公廨稲の配分率で表記した単位であり、三分は掾、二分は目、一分は史生・国博士・国医師など四等官未満の官職が相当した[6]。
- 天皇-掾2人・目3人・一分20人
- 院宮-掾1人・目1人・一分3人・京官1人[注釈 2]
- 親王-目1人・一分1人[注釈 3]
- 太政大臣-目1人・一分3人
- 大臣-目1人・一分2人
- 納言-目1人・一分1人
- 参議-目1人
- 女御-目1人・一分1人
- 尚侍-目1人・一分1人
- 典侍-一分1人
- 掌侍-一分1人
二合
実際の申請においては「二合」と呼ばれる方法がしばしば使われた。これは2つの年官の権利(2人分の推薦)を合わせて1つ上の等級の官職の権利(1人分の推薦)を得る方法で、主として目(二分)と一分の推薦権と引き換えに掾(三分)の推薦権を行使される事例が多い[7]。二合の権利を認められていたのは親王(この場合は内親王を含む)・大臣・納言(中納言以上)に限定され、後に参議・女御・尚侍に対しても認められるようになった[7]。
親王は「巡」と呼ばれるいくつかのグループに編成され、毎年順番に1つの巡に対して二合の申請を許された(巡給)。大臣と納言は『寛平御遺誡』によって4・5年に1回二合が許されていたが、11世紀初頭までに大臣は隔年で二合が認められるようになった。参議は本来は二合を認められていなかったが、後に五節舞姫を献上した翌年に限って二合が許されることとなった[注釈 4]。また、公卿に対しては自分の子息の任官のために原則1度だけ二合が許された(子息二合)。また、女御には10世紀後半以降、尚侍には11世紀前半以降に二合が認められていたと思われる記録がある[7]。