昭和56年3月、原田博二がたまたま訪れた西応寺にて偶然広渡湖秀の墓を発見。墓誌や過去帳などを調査し、生没年に30年以上の開きがあること、墓所・法名・妻の名などが異なることから、長崎で活躍した湖秀とは別人であることが判明した。
長崎の湖秀は八平次と称され、江戸の湖秀は多惣太と名乗った。
しかし、ともに湖秀・巌斐と号し、落款印の「崎陽山人」・「無声之詩」も同一。長崎に生まれ唐絵目利であった点、ともに先祖は明人浪仙一湖という人物で慶州広渡の出身としている点など共通点も見いだされる。両者になんらかの深い関係があったことは間違いない。