康思立
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若くして騎射を得意とし、李克用に仕えてその爪牙となり、河東親騎軍使に任じられた。李存勗が晋王位を嗣ぐと、思立は上党への援軍や柏郷の戦いや燕の平定戦や黄河で戦いに参加して、いずれも功績を挙げた。検校戸部尚書を加えられ、右突騎指揮使となった。同光元年(933年)、後唐の荘宗(李存勗)が即位すると、思立は軍帥を継ぎ改め、忠勇拱衛功臣の号を賜り、検校尚書右僕射を加えられた[1][2]。
天成元年(926年)、応州刺史に任じられた。ほどなく嵐州刺史に移り、北面諸蕃部族都監をつとめた。天成3年(928年)、宿州団練使に転じた。天成4年(929年)、昭武軍節度・利通巴集等州観察処置等使に任じられた。耀忠保節功臣の号を改めて賜った。長興元年(930年)、剣南東川節度使の董璋が反乱を起こすと、思立は明宗の命を受けて西面行営軍馬都指揮使をつとめた。長興2年(931年)、保義軍節度使に転じた[1][2]。
応順元年(934年)、閔帝の命により王思同らとともに潞王李従珂を攻撃した。李従珂に敗れて降った。清泰元年(同年)、安国軍節度使に転じ、検校太傅を加えられ、会稽郡開国侯に封じられた。清泰2年(935年)、洛陽に入朝して右神武軍統軍となった。清泰3年(936年)、北面行営馬軍都指揮使をつとめた。閏11月、軍中で死去した。享年は63。後晋の天福元年(同年)、高祖石敬瑭が即位すると、思立は太子少師の位を追贈された[3][2]。