延永春信
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丹後の有力者としての活動
延永氏は丹後国の府中[1]を拠点とした有力国衆である。室町時代には舞鶴湾に近い倉橋郷(現・舞鶴市)に所領を大きく広げ、丹後水運にも影響力を持つなど勢力を拡大した。丹後守護所のおかれた府中でも、一色氏の有力家臣として、丹後守護代を務めて家勢を拡げた。一色氏の混乱と衰退の後は、その権勢は主家を凌ぐほどにまで成長していた。
明応2年(1493年)、丹後国にて、一色五郎が足利義澄を支持する伊賀氏の後ろ盾を受けて、足利義材を支持していた父の義秀と対立する。これを受けて、明応6年(1497年)春信は一色五郎を殺害している。このように、当時の丹後情勢は室町幕府将軍家のうち、誰を支持するかを巡り、争いが展開されていた。

文亀元年(1501年)、春信は丹後智恩寺(現・宮津市)に多宝塔を建立した。同じ時期に金剛心院にも禁制状を発給しており[2]、その勢力の大きさが見て取れる。
永正3年(1506年)には武田元信による丹後侵攻が行われる。春信は永正4年(1507年)4月以前には与謝郡の阿弥陀ヶ峰城に入り、今熊野城に籠城する一色義有を補佐して武田勢に対抗し、同年6月まで武田軍やそれに加勢する細川政元家臣・赤沢宗益の軍勢を防いだ[3]。春信や石川直経らの活躍により、一色氏は若狭武田氏・細川氏との抗争に勝利し、丹後国防衛に成功した。
石川直経や一色義清との抗争、若狭侵攻
しかし、今度は春信と直経の間で、丹後の主導権を巡り抗争が勃発する。
永正9年(1512年)に一色義有が病没すると、その後継者として直経が尾張一色五郎の子・一色義清を擁立した。これに対して、春信は三河国から一色九郎を迎えて一色義清に対抗した[4]。永正12年(1515年)には、既に春信・九郎と直経・義清の対立による丹後情勢の悪化が京にまで伝わっていた[5]。
永正13年(1516年)8月、遂に延永氏と一色義清は軍事的に衝突する。
このとき、一色九郎を擁した春信は義清の援軍として参戦した近江の伊庭貞説を戦死させ、義清を府中より追放するなど合戦を優勢に展開[6]、義清を石川直経のもとに遁走させた。さらに直経を攻めて加佐郡にまで追い詰める。しかし、義清方は持ち直し、直経は小倉氏や伊賀氏と組んで春信に対抗した。
その後、春信は永正14年(1517年)5月から6月にかけて、若狭大飯郡の和田に進攻し、岡本主馬介を討ち取り和田の地を占拠した。高浜を領していた逸見国清をはじめ、大飯郡の国衆を味方に引き込むことに成功。逸見氏らの合力を得て、八千騎とも称する大軍勢を以て侵攻戦を本格化させた。
しかし、この若狭侵攻が仇となり、武田元信が室町幕府に救援要請を行った結果、将軍足利義材が春信追討の御内書を越前の朝倉孝景に下した。こうして、朝倉宗滴(教景)が若狭へと派遣されたほか、近江から朽木氏・六角氏家臣の伊庭氏が春信討伐に参戦する。
一方、6月2日には、春信は死者二千余人に登ったともされる激戦のすえ、石川直経の本拠・丹後加悦城を攻め落とし、直経・義清を若狭へと追放した[7]。このように延永氏は丹後を掌握しつつあったが、直経らを取り逃してしまい、結果として石川氏や義清は若狭武田氏などの外部勢力を頼って落ち延び、春信に未だ対抗した。そのため、春信は対外勢力に丹後介入の口実を与えてしまうこととなった。春信は若狭への侵攻を激化させて直経・義清を捕捉しようと試みたが成功しなかった。同月中には朝倉氏の攻勢によって若狭から撤退せざるを得なくなり、間もなく朝倉勢を中核とする春信討伐軍の丹後への侵攻を許すことになる。
春信による一連の若狭国侵攻は、加悦城より敗走した石川直経・一色義清を追捕するためであったともされるが、一部資料には加悦城を春信が攻略した6月2日以前に春信方が若狭に侵攻しているとするものが存在し、前後関係や春信の若狭攻めの要因について未だ検討が必要である。
朝倉氏らとの戦い・倉橋城陥落・延永氏の退勢
将軍による春信討伐命令と、それを受けた朝倉氏の参戦は、春信優勢に進んでいた丹後・若狭の情勢を急転させた。一色義清派対一色九郎派の構図が、親幕府勢力対一色九郎派という構図に大きく拡張したためである。
春信による若狭侵略、武田元信による幕府への救援要請、そして石川直経・一色義清から助けを求められた事を口実とした足利将軍や朝倉孝景、近江六角氏といった幕府・親幕府勢力が、たびたび幕府側(細川氏・武田氏)と抗争してきた丹後国への本格的介入に乗り出すべく、若狭に集結する。
若狭に敵の大軍が集ったため、春信軍は情勢不利とみて丹後加佐郡まで引き上げる。朝倉勢は、朝倉景職や本郷氏が高浜城に入った[8]他、白井清胤が加佐郡の余戸に布陣[9]、近江の朽木植綱や丹波の内藤守国も丹後に出兵した。これによって、それまでの優勢から一転、追い詰められた春信は加佐郡倉橋城に籠城した。倉橋は、春信の先祖とみられる延永左京亮が、延永氏の領地全体の過半を占める100町以上の所領を同地に有した記録が存在するように[10]、延永氏の根拠地の一つであり重要拠点だった。
倉橋は朝倉孝景・朝倉宗滴・朽木植綱・内藤守国といった討伐軍に攻め囲まれて窮地に陥る。春信は防戦に努めるも、遂に8月8日、倉橋城は激戦のすえに朝倉方によって攻め落とされ(或いは降伏)[11]、春信は敗走を余儀なくされた。このころには延永氏に味方していた若狭の逸見国清が戦死するも、9月には春信の一党が若狭に攻めこむ。しかしながら、この一党も本郷氏ら若狭勢によって撃退された[12]。
9月6日には義清と直経が丹後国に帰国し[13]、結果として春信の政変は失敗に終わった。
22日には延永方の堤篭屋、10月には吉沢城が武田元信派の白井清胤によって攻撃されるなど、丹後の広域にわたり争乱が展開された[14]。この混乱において延永氏、武田氏、その他の国衆勢力も少なくない被害を出すことになった。
丹後国の掌握が朝倉氏など対外勢力の介入により失敗し、重要拠点であった倉橋城を攻略され、国内・国外の各地でも味方が劣勢に立たされ衰退していったことで、以降の延永氏は勢力が衰えていく。
春信についても、その最期は不明である。一説には永正14年(1517年)倉橋城の戦いで戦死したともされるが、複数の史料で、城の陥落(降伏?)ののちに春信が助命された、或いは城から遁走したという記事が存在するため[15]、この説は否定されている。いずれにしろ、室町時代以来丹後の有力者として台頭してきた延永氏は、春信の代以降、衰微していったと思われる。
延永と一色の支持勢力・内乱のその後
春信は、一色義有の生前には目立った抗争の動きを見せていなかったが、義有死後には一色氏家中や丹後の主導権を巡って石川直経と争い、一色九郎を擁立していた。その一方、直経ら一色義清派は、早くから丹後国外の勢力とつながりを得ていたとみられる。永正13年(1516年)における春信対義清の合戦で近江六角氏家臣の伊庭貞説が義清派として参戦していることからも、外部との連携は明白である。
さらに、永正14年(1517年)に直経・義清が丹後より没落した際、義清らは若狭国に入り武田元信らを頼ったとみられる。春信が幕命により編成された朝倉氏をはじめとする討伐軍勢に倉橋にて敗退した直後、両者は丹後帰還に成功していることからも、時期は不明ながら義清派が若狭・近江などの諸勢力と通交を行っていたか、少なくとも幕府秩序を重んじる大名勢力の支持を受けていたことが分かる。
その一方、春信に合力した国外勢力は逸見国清程度であり、逸見氏自体も延永氏と組むことは度々だったといい、密接な間柄であったとされる。このことから、春信の支持勢力は、守護代・丹後の有力者として延永氏と地域的に近しい関係にある丹後・若狭西部の国衆に限られていたと考えられる。
そのため、丹後とその近辺地域では延永氏を筆頭とする一色九郎派が支持を得て強勢であったものの、一方の義清派は事前に国外との関係を構築していたこと、没落後に幕府と縁の深い若狭武田氏を頼ったことなどにより、結果として幕府将軍にまで及ぶ広範囲な支持を勝ち得て抗争に勝利することとなった。つまり、春信と義清の抗争は、延永氏を中心とした丹後周辺の在地勢力と、義清や武田氏などの幕府派勢力(あるいは国衆を抑え込もうとする有力大名)、反延永氏の国衆との争いとも見て取れる。
義清の春信に対する勝利は幕府、そして親幕府の武田氏や朝倉氏に大きく依存したものであったことから、戦後、丹後加佐郡には武田元信が大きく進出するなど、春信衰退後の丹後国は幕府方勢力や有力守護大名による影響を受けることとなり、内乱による混乱と衰退も重なった一色氏は、以降半世紀以上史料に登場しない低迷の時期が続く。
春信や逸見国清による内乱の収束後も、丹後・若狭両国の国衆は勢力を保ち、特に石川氏は「国奉行」とも称される権勢を振るう。丹後・若狭の国衆が衰退するのは、畿内周辺に激しい混乱と戦闘が続く戦国時代後期から安土桃山期にかけてであり、中世末期まで石川氏ら国衆は、丹後の在地有力者として存在感を発揮していた。
参考文献・脚注
参考文献
- ↑ かつて国府が所在した地域。丹後国だけでなく、他の国々でも国府が位置していた場所は「府中」という名称が付くことが多い(駿河国府中、若狭国府中など)。
- ↑ 『福井県史』通史編2 中世 第四章第一節
- ↑ 多聞院日記 五月二十五・二十八日条、宣胤卿記
- ↑ 『福井県史』通史編2 中世 第一節、東寺過去帳
- ↑ 「宣胤卿記」
- ↑ 東寺過去帳 永正十三年八月条
- ↑ 東寺過去帳 永正十四年六月二日条
- ↑ 本郷文書百四十八号
- ↑ 白井文書十号
- ↑ 丹後国田数帳 倉橋郷百六十七町七段内
- ↑ 御内書案、朝倉仕末書、東寺過去帳
- ↑ 本郷文書百四十九号
- ↑ 朽木文書、御内書案
- ↑ 白井文書十三号・十四号
- ↑ 朝倉仕末書「源六(春信)遂に降参し、死を遁れて...」 加越闘争記「丹後国倉橋城。源六(春信)降。」など。