智恩寺 (宮津市)
京都府宮津市にある寺院
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文殊信仰
歴史
創建
創建に関する詳細は定かではないが、大同3年(808年)に平城天皇の勅願寺として創建された寺を前身とし、延喜4年(904年)に醍醐天皇から天橋立智恩寺の号を賜ったとされる[1]。以後、中世までの歴史は判然としない。
中世
当初は密教の寺院だったが、嘉暦年間(1326年-1329年)には禅僧の嵩山居中が入寺して禅宗寺院となったとされる[1]。応永2年(1395年)9月には足利義満が久世戸を詣でており、以後もしばしば丹後国を訪れた[1]。文明18年(1486年)には京都・相国寺の彦龍周興が智恩寺に滞在した[1]。明応10年(1501年)、真言宗の僧である智海が多宝塔を建立した[1]。雪舟が描いた『天橋立図』(国宝)には智恩寺多宝塔が描かれており、雪舟の最晩年の作とされている[8]。
近世
寛永10年(1633年)には国清寺の別源宗調が智恩寺に入山し、境内の復興や寺領の整備を行うと、この頃から臨済宗妙心寺派に属するようになった[1]。明暦元年(1655年)には文殊堂(本堂)の大改修に着工し、万治2年(1659年)にはほぼ現在の姿になったとされる[1]。この明暦の大改修の際には、文永7年(1270年)を最古とする墨書が発見されており、内陣廻りについては中世以前の形態を残していることが判明した[1]。
享保7年(1722年)には方丈と庫裏への門として、宮津の木村正英の寄進によって楼門(暁雲閣)が建立された[1]。宝暦12年(1762年)には観音堂、明和4年(1767年)には三門(黄金閣)、寛政11年(1799年)には庫裏が、富田喜左衛門盛行、富田庄次郎盛定、富田清右衛門保久の親子によって建てられた[9]。
境内
- 文殊堂 - 鎌倉時代。重要文化財。
- 多宝塔 - 室町時代。重要文化財。
- 三門(黄金閣) - 江戸時代。京都府指定文化財。
- 楼門(暁雲閣) - 江戸時代。京都府指定文化財。
- 鐘楼 - 明治時代。
- 鉄湯船 - 鎌倉時代。重要文化財。
- 方丈 - 1841年(天保12年)再建、東西24メートル、南北16メートル[10]。
- 庫裏 - 1799年(寛政11年)再建、東西15メートル、南北20メートル、高さ10メートル[10]。
- 鐘楼 - 1881年(明治14年)建立、東西・南北3.6メートル[10]。
- 鎮守堂 - 1849年(嘉永2年)再建、東西3メートル、南北2メートル[10]。
- 豫科練供養塔
- 力石 - 大130キログラム・中100キログラム・小70キログラム。祭りなどの余興に持ち上げた石を奉納したもので、この石に触わると知恵を授かるといわれる[11]。
- 鐘楼
- 豫科練供養塔
- 力石
- 稲富一夢斎の墓
文化財

重要文化財(国指定)
府指定文化財
- 文殊堂 - 1657年(明暦3年)の改修により現在の形となる。1997年(平成9年)から1999年(平成11年)に保存修理を施工[15]。
- 三門(黄金閣) - 1767年(明和4年)9月上棟[10]。丹後地方に現存する最大の二重門であり、大工の勤務状況を記録した出面板は全国的に類例が少なく重要とされる[1]。
- 楼門(暁雲閣) - 1722年(享保7年)建立[10]。上質な材木を用いた独特な意匠の楼門であり、丹後地方における竜宮門の規範となっている[1]。
- 「萬福寺」扁額 - 1346年(貞和2年)。木製黒漆塗、53.2×33.6センチメートル[10]。
- 絹本著色 釈迦三尊像 - 南北朝時代。一幅、113.0×63.8センチメートル[10]。
- 絹本著色 地蔵菩薩像 - 南北朝時代。一幅、144.2×78.7センチメートル[10]。
- 九世戸縁起 - 室町時代。一巻、25.1×513.5センチメートル[10]。
- 九世戸智恩寺幹縁疏并序 - 1486年(文明18年)。一巻、27.7×162.9センチメートル[10]。
- 木造大日如来坐像 - 康珎 作
市指定文化財
その他の文化財
- 地蔵菩薩立像 - 鎌倉時代(後期)。木造、96.7センチメートル[10]。
- 大日如来坐像 - 1501年(文亀元年)銘。多宝塔の本尊[10]。
- 天橋立図屏風 - 江戸時代に描かれた六曲屏風。智恩寺を天橋立に隣接した島とする誇張も見られるが、天橋立の賑わう様子が読み取れ、宮津の街並みや現存しない宮津城なども描かれている。
- 鉄湯船
- 三門(黄金閣)
- 楼門(暁雲閣)
- 石造地蔵菩薩立像(南に並ぶ2体)
